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バーチャル巡検 ---- 奈良・斑鳩の旅
奈良公園(興福寺・東大寺・奈良国立博物館・春日大社)、平城宮跡と西ノ京(唐招提寺・薬師寺)、斑鳩の里(藤ノ木古墳・法隆寺・中宮寺)


 私は63才で定年退職した後、国内でも国外でもザックを担いで歩き回り、沢山の写真を撮り、Websiteで必要な情報を集め、ホームページを制作するのを楽しみにしてきた。ところが83才のいま、それが叶わなくなった。骨折と貧血で外出ができなくなったのである。今年の10月には、日本山岳会 山の自然学研究会の行事として、2泊3日の「奈良・斑鳩の旅」にご案内することが決まっていたが、実施が困難になった。

 強欲な私は、昨年までに行った下見のデータ等を何とか利用できないかと考え、「
バーチャル巡検 ---- 奈良・斑鳩の旅」のホームページを制作することにした。Websiteから引用した写真・記事は著作権上問題なしとは言えないが、著作権法第1条に著作権法の目的が「文化の発展に寄与すること」とされていることに鑑み、何卒寛容にお願いしたい。

 ホームぺージの体裁は、いつも通りの巡検スタイルにした。ホームページをご覧になってWeb上でバーチャル巡検を楽しんで頂いても結構ですし、印刷したホームページを片手に
リアル巡検を楽しんで頂いければ、幸甚である。但し強欲な私が造ったプランですので、時間的にかなり厳しいことにご注意願いたい。あああああああああああああああああああああああああああああ(2019年7月)
              お願い
 このホームページに、誤りや不適切な記載がありましたら、お手数ですが、
 下記にメールでお知らせ願います。
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         復元された第一次大極殿
奈良時代、大極殿は天皇の即位式や外国からの使節に対する賜饗の儀、元日の朝、天皇が群臣の拝賀を受ける朝賀の儀など、国家的行事に際して使用された。平城宮に存在した2つの大極殿のうち、第一次大極殿は、平城京への遷都以降、天平12年(740)、都が恭仁京へ遷都するまでのあいだに使われた宮殿。平城遷都1300年の年に当たる2010年に復元された。その規模は東西約44m、南北約20m、高さ約27m
 


バーチャル巡検 奈良・斑鳩の旅 3日間の全域地図


1日目
  奈良公園 (興福寺、東大寺、奈良国立博物館、春日大社)

今日はバーチャル巡検「奈良・斑鳩の旅」の初日。全国各地から近鉄奈良駅に集合し、奈良で最もポピュラーな奈良公園と呼ばれるエリアで、興福寺、東大寺、奈良国立博物館、春日大社を巡る。

1日目 地図

興福寺

興福寺(こうふくじ)は、法相宗の大本山の仏教寺院である。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。世界遺産「古都奈良の文化財」の一部として1998年に登録された。

藤原鎌足夫人の鏡大王が夫の病気平癒を願い、天智天皇8年(669年)山背国山階に創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。和銅3年(710年)の平城京への遷都に際し、鎌足の子不比等は現在地に移転し「興福寺」と名付けた。この710年が実質的な興福寺の創建年と言える。

江戸時代は21,000石の寺領を与えられ保護された。慶応4年(1868年)に出された神仏分離令は、全国に廃仏毀釈の嵐を巻き起こし、春日社と一体の信仰(神仏習合)が行われていた興福寺は大きな打撃をこうむった。一時は廃寺同然となり、五重塔さえ売りに出る始末だったという。


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猿沢池は、興福寺が行う「放生会」の放生池として、天平21年(749年)に造られた周囲360mの人工池。興福寺五重塔が周囲の柳と
一緒に水面に映る風景はとても美しい。

興福寺周辺地図と散策路 猿沢池と興福寺五重塔

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               再建された中金堂
中金堂(ちゅうこんどう)は、藤原鎌足発願の釈迦三尊像を安置するための、寺の中心的な堂として和銅3年(710年)の平城京遷都直後に造営が始められたと推定される。創建以来たびたび焼失と再建を繰り返した。創建当初の姿を再現した新・中金堂の建設が、創建1,300年となる2010年に着工し、2018年10月に落慶した。
 
 
  

         (左)東金堂と(右)五重塔(いずれも国宝)
東金堂(とうこんどう)は、神亀3年(726年)、聖武天皇が伯母にあたる元正天皇の病気平癒を祈願し、薬師三尊像を安置する堂として創建した。現存する興福寺東金堂は、室町時代中期の応永33年(1426年)に再建されたもの。

五重塔は、光明皇后の発願により、天平2年(730年)に創建された。現存する興福寺五重塔は、室町時代中期・応永33年(1426年)の再建。高さ50.1m


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               北円堂(国宝)
北円堂(ほくえんどう)は、養老5年(721年)、藤原不比等の一周忌に際し、元明上皇・元正天皇の両女帝が長屋王に命じて創建させた八角堂である。現存する北円堂は、鎌倉時代前期・承元4年(1210年)の再建で、興福寺に現存する中で最も古い建物である。

                南円堂(重文)
興福寺南円堂(なんえんどう)は、藤原北家の藤原冬嗣が、父・内麻呂の追善のため、弘仁4年(813年)に創建した八角堂である。現存する南円堂は、江戸時代中期寛保元年(1741年)の再建。
 


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            国宝館
僧侶が集団で食事する食堂が建てられていた場所に、1959年に鉄筋コンクリート造りの宝物収蔵庫として建てられた。右の彫刻などが収蔵されている。
 

 阿修羅像/八部衆像の1躯(国宝)
もと西金堂本尊釈迦如来像の周囲に安置されていた群像の1つ。中でも三面六臂(顔が3つで手が6本)の阿修羅像(あしゅらぞう)が著名。
 

           うんぎょう                   あぎょう
    金剛力士像(吽形)(国宝)        金剛力士像(阿形) 国宝)

もと鎌倉時代再興期に西金堂須弥壇上に安置されていた。定慶作とする説もある。
 



東大寺

東大寺は、華厳宗大本山の寺院である。奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とする。奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70m以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。また現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けされた。 東大寺は世界遺産「古都奈良の文化財」の一部として1998年に登録された。

東大寺境内案内図

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                 南大門(国宝)
平安時代の応和2年(962年)8月に台風で倒壊後、鎌倉時代の正治元年(1199年)に復興されたもの。南大門の入口左右には、金剛力士像(国宝)が安置されている。高さ8.4mの巨大な木像。建仁3年(1203年)に、わずか69日で造られた。門の向かって右に吽形(うんぎょう、口を閉じた像)、左に阿形(あぎょう、口を開いた像)を安置する。これは一般的な仁王像の安置方法とは左右逆である。
 

               金堂(大仏殿)(国宝)
当初の大仏殿は、8世紀に造られたが、その後2度の兵火で焼け落ち、現存する大仏殿は宝永6年(1709年)に落慶したものである。現存の大仏殿は寄棟造、本瓦葺き。2階建てに見えるが、構造的には一重裳階(もこし)付きで、正面5間、側面5間の身舎(もや)の周囲に裳階を回している。高さ46.8m、間口57m、奥行50.5mで、高さと奥行は創建時とほぼ変わりないが、東西の幅は約3分の2に縮小されている。


大仏の歴史
 
  
A                   大仏造立の思想的・時代的背景
東大寺大仏は、聖武天皇により天平15年(743年)に造像が発願された。実際の造像は天平17年(745年)から準備が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会が実施された。 のべ260万人が工事に関わったとされ、関西大学の宮本勝浩教授らの試算によると、創建当時の大仏と大仏殿の建造費は現在の価格にすると約4657億円と算出された。

聖武天皇は天平15年10月15日(743年11月5日)、近江国紫香楽宮にて大仏造立の詔を発した。詔は『続日本紀』にあり、大意は以下のとおりである。
「私は天皇の位につき、人民を慈しんできたが、仏の恩徳はいまだ天下にあまねく行きわたってはいない。三宝(仏、法、僧)の力により、天下が安泰になり、命あるものすべてが栄えることを望む。ここに、天平15年10月15日、菩薩の(衆生救済の)誓願を立て、盧舎那仏の金銅像一体を造ろうと思う。国じゅうの銅を尽くして仏を造り、大山を削って仏堂を建て、広く天下に知らしめて私の知識(大仏造立に賛同し、協力する同志)とし、同じく仏の恩徳をこうむり、ともに悟りの境地に達したい。天下の富や権勢をもつ者は私である。その富や権勢をもってこの像を造ることはたやすいが、それでは本意を達することができない。私が恐れているのは、人々を無理やりに働かせて、彼らが聖なる心を理解できず、誹謗中傷を行い、罪におちることだ。だから、この事業に加わろうとする者は、誠心誠意、毎日盧舎那仏に三拝し、自らが盧舎那仏を造るのだという気持になってほしい。たとえ1本の草、ひとにぎりの土でも協力したいという者がいれば、無条件でそれを許せ。役人はこのことのために人民から無理やり取り立てたりしてはならない。私の意を広く知らしめよ。」

大仏造立の詔の2年前の天平13年(741年)、聖武天皇は詔して、国ごとに国分寺と国分尼寺を造ることを命じた。そして、東大寺は大和国の国分寺であると共に、日本の総国分寺と位置付けられた。この国分寺造立の思想的背景には護国経典である『金光明最勝王経』(10巻、唐僧の義浄訳)の信仰があった。同経によれば、この経を信じる国王の下には、仏教の護法善神である四天王が現れ、国を護るという。聖武は、日本の隅々にまで国分寺を建て、釈迦像を安置し、『金光明最勝王経』を安置することによって、国家の安定を図ろうとする意図があったものと思われる。
聖武天皇が位に付いていた8世紀前半、すなわち天平時代の日本は決して安定した状況にはなかった。天平9年(737年)には、当時の政治の中枢にいた藤原武智麻呂房前・宇合・麻呂の四兄弟が、当時猛威をふるっていた天然痘(疫病)で相次いで死去した。そのほかにも、天平時代は例年旱魃・飢饉が続き、天平6年(734年)には大地震で大きな被害があり、国分寺建立の詔の出る前年の天平12年(740年)には九州で藤原広嗣の乱が発生するなど、社会不安にさらされた時代であった。聖武による国分寺の建立、東大寺大仏の造立には、こうした社会不安を取り除き、国を安定させたいという願いが背景にあったものと推測されている。

                   大仏鋳造の経緯
「大仏殿碑文」によれば、鋳造は天平19年9月29日(747年11月6日)に開始され、天平勝宝元年10月24日(749年12月8日)に終了した。「碑文」は「三箇年八ヶ度」、つまり3年にわたり、8回に分けて鋳造が行われたと言っているが、実年数は2年間強である。「八ヶ度」は、巨像を下から上へ、8段に分けて順次鋳造したという意味に解釈されている。その造像手法は次のように推定されている。
  1. まず、木材の支柱を縦横に組み、これに細い枝や麻縄などを巻きつけ、塑像の芯材の要領で大仏の原型の芯を造る。
  2. 大仏のおおよその形ができたら、これに土をかぶせる。かぶせる土はきめの荒いものから塗り始め、だんだん外側へ行くにしたがって粒子の細かい土を塗っていく。こうして金銅像と同じ大きさの土製の像ができる。これを原型または中型(なかご)という。
  3. 中型の土が十分乾燥してから、今度は中型を外側から覆うような形で「外型」(雌型)をやはり粘土で造る。巨像のため、外型は下から上へ、8段に分けて造られた。中型と外型が接着しないように、剥離剤として薄い紙をはさむなど、何らかの方法が取られたはずである。
  4. 外型を適当な幅で割り、中型から外す。
  5. 外型の内面を火で焼き、型崩れしないようにする。
  6. 中型の表面を一定の厚み(数センチメートル)で削る。この作業で削った厚みが、完成像の銅の厚みとなる。
  7. 一度外した外型を再び組み合わせる。外型と中型がずれないようにするため型持を入れる。正倉院文書によれば、型持は4寸四方、厚さ1寸の金属片を3,350枚造ったという。
  8. 炉を持ち込み、高温で銅を溶かし、外型と中型のすき間に溶けた銅を石の溝から流し込む。中型を削ってできた空洞がそのまま完成像の銅の厚みになる。大仏の場合、巨像であるため、脚の部分から頭部まで全部で8段に分け、丸2年かけて鋳造したことが知られる。

制作は以上で完了した訳ではなく、鋳造後の表面の仕上げ、螺髪の取り付け、像表面の鍍金(金メッキ)、光背の制作など、他にも多くの工程があり、これだけの巨像を造立するには想像を絶する困難があったものと思われる。作業中の事故や、鍍金の溶剤として用いられた水銀の中毒により多くの人命が失われたとも言われる。銅に含まれていた砒素と鍍金に使用された水銀による推定数百人の中毒患者のため、これを専門とする救護院が設けられていた。

          大仏(盧舎那仏像)(国宝)
東大寺大仏殿(金堂)の本尊である。現存の大仏は像の高さ約14.7m、基壇の周囲70mで、頭部は江戸時代、体部は大部分が鎌倉時代の補修であるが、台座、右の脇腹、両腕から垂れ下がる袖、大腿部などに一部建立当時の天平時代の部分も残っている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


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                  二月堂(国宝)
旧暦2月に「お水取り」(修二会)が行われることからこの名がある。二月堂は平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の大火には焼け残ったとされているが、寛文7年(1667年)、お水取りの最中に失火で焼失し、2年後に再建されたのが現在の建物である。本尊は大観音(おおがんのん)、小観音(こがんのん)と呼ばれる2体の十一面観音像で、どちらも何人も見ることを許されない絶対秘仏である。

              三月堂(法華堂)(国宝)
東大寺に現存する数少ない奈良時代建築の1つであり、堂内に安置する10体の仏像も奈良時代の作である。堂内には多数の仏像が安置されていたが、2011年の東大寺ミュージアム開館に際し、一部の仏像は同ミュージアムに移動されてた。
 
 


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   東大寺ミュージアム
東大寺の境内にある東大寺総合文化センター内に、2011年10月に開館した。国宝や重要文化財の展示物等を通じて、東大寺の歴史を知ることのできる施設になっている。

 

(左)月光菩薩立像(国宝)
像高:約205cm  材質:粘土

(右)日光菩薩立像(国宝)
像高:約207cm  材質:粘土



日光菩薩・月光菩薩立像のこと

                正倉院(国宝)
正倉院(しょうそういん)は、東大寺大仏殿の北北西に位置する、校倉造(あぜくらづくり)の大規模な高床式倉庫。聖武天皇・光明皇后ゆかりの品をはじめとする、天平時代を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた建物で、世界遺産「古都奈良の文化財」の一部として登録された。元は東大寺の正倉(倉庫)だったが、1875年(明治8年)3月10日、収蔵されていた宝物の重要性に鑑み、宮内庁の正倉院事務所が正倉院宝庫および正倉院宝物を管理している。

薬師如来にまつわる伝記では、薬師如来像は2人の子供がいて、その子供の名前が「月光」「日光」と呼ばれていたと云われ、つまりは月光菩薩、日光菩薩のことを指す。こちらの日光菩薩・月光菩薩立像は、元々日光・月光菩薩像として造られたものではなく、梵天・帝釈天像だったのではないかとも考えられている。




奈良国立博物館

奈良国立博物館は、独立行政法人国立文化財機構が運営する博物館である。仏教美術を中心とした文化財の収集、保管、研究、展示を行うとともに、講演会や出版活動などを通じた普及活動を行うことを主たる活動内容としている。館は1895年(明治28年)、帝国奈良博物館として開館した。奈良国立博物館という名称に変わったのは1952年(昭和27年)からである。1922年に来日していたアインシュタインが来館している。当日の日記には日本の芸術について深い印象を覚えた旨が記された。

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       奈良国立博物館 なら仏像館
なら仏像館は、飛鳥時代から鎌倉時代にいたる日本の仏像を中心に、国宝、重要文化財を展示する、国内の博物館では、もっとも充実した仏像の展示施設である。明治27年(1894)に完成した、奈良で最初の本格的洋風建築で、昭和44年 (1969)に「旧帝国奈良博物館本館」として重要文化財に指定された。

右の薬師如来坐像および日本書紀巻第十残巻は所蔵品の1つ

   薬師如来坐像(国宝)
もと京都・東山の若王子社に安置されていた像。両手首先や螺髪(らほつ)などを除き、台座蓮肉部までを含めて、カヤの一材から造られている。容貌にはどこかインド的な面影がただよう。様式からみて制作期は9世紀の半ば頃と考えられる。

       日本書紀 巻第十残巻(国宝)
養老4年(720)に完成した『日本書紀』30巻は、わが国最古の勅撰の国史である。神代から持統天皇の時代までの出来事を、漢文により編年体で記している。『日本書紀』はきわめて重要視され、すぐれた写本も少なくないが、本巻が現存する最古の写本である。 これは30巻のうち巻第十の「応神天皇紀」で、首尾各1紙を欠くものの9紙が残され、応神天皇2年から41年までの記事を、端麗な楷書で記している。書風からみて平安時代初期のものと推定される。




春日大社

春日大社は、中臣氏(のちの藤原氏)の氏神を祀るために768年に創設された神社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。全国に約1000社ある春日神社の総本社である。世界遺産「古都奈良の文化財」の1つとして登録されている。

平城京に遷都された710年(和銅3年)、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山(みかさやま)に遷して祀り、春日神と称したのに始まるとする説もある。藤原氏の隆盛とともに当社も隆盛した。平安時代初期には官祭が行われるようになった。当社の例祭である春日祭は、賀茂神社の葵祭、石清水八幡宮の石清水祭とともに三勅祭の一つとされる。

藤原氏の氏神・氏寺の関係から興福寺との関係が深く、神仏習合が進むにつれ、春日大社と興福寺は一体のものとなっていった。1946年(昭和21年)の近代社格制度の廃止に伴い、そのままでは単に「春日神社」となって他の多くの春日神社と混同することを避けるために現在の「春日大社」に改称した。


春日大社境内案内図

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南門(重要文化財)
南門は春日大社正面の楼門でである。表参道を歩いて回廊内に
入る時に潜る門で、 高さは12mあり春日大社最大の門である。
 
 
御本殿には4つの御祭神が祀られている
       第一殿 武甕槌命(たけみかづちのみこと)
       第二殿 経津主命(ふつぬしのみこと)
       第三殿 天児屋根命(あめのこやねのみこと)
       第四殿 比売神(ひめがみ)

ホテルフジタ奈良は、JR奈良駅と近鉄奈良駅の中間にあり、
いずれからも徒歩約5分


コラム
奈良の由来
Wikipedia他を参考にしました

 1.奈良の表記

 平安時代以前には多くの異表記があった。
 乃楽 :  日本書紀                                       
 平   :  万葉集
 平城 :  万葉集、続日本紀、日本後紀、日本霊異記、平安遺文
 名良 :  万葉集
 奈良 :  万葉集、続日本紀、日本霊異記、正倉院文書、長屋王家木簡、平安遺文
 奈羅 :  日本書紀、日本霊異
 常   :  万葉集
 那良 :  古事記
 寧楽 :  万葉集
 那羅 :  日本書紀
 楢  :   万葉集
 諾良 :  聖徳太子平氏伝雑勘文
 諾楽 :  日本霊異
 寧楽 :  万葉集 - 奈良に来ることを意味する「来寧」はこの語に由来する
 儺羅 :  日本書紀

 2.奈良の語源

 奈良の語源を巡っては諸説あるが、比較的知られているものを挙げる。このうち特に有力視されているのは、2番目の柳田国男に
 よる説である。
 ①『日本書紀』による説
  当地にあった丘(平城山丘陵)の草木を踏みならしたという『日本書紀』の記録に由来する。崇神天皇十年九月条には次のように
  ある。「則ち精兵(ときいくさ)を率(ゐ)て、進みて那羅山に登りて軍(いくさだち)す。 時に官軍(みいくさ)屯聚(いは)みて、草木
  を蹢跙(ふみなら)す。因りて其の山を号(なづ)けて、那羅山と曰ふ。
 ②柳田国男による説
  平(なら)した地の意で、緩傾斜地を指すとする。柳田国男が『地名の研究』において論じているもの。柳田によれば、東国では平
  (タヒラ)、九州南部ではハエと呼ばれる「山腹の傾斜の比較的緩やかなる」地形は、中国・四国ではナルと呼ばれている。ナラス
  (動詞)、ナラシ(副詞)、ナルシ(形容詞)はその変化形である。実際、奈良はかつて「平城」と書かれることもあった。この説は、
  日本国語大辞典、各種の地名辞典や郷土史本でも取上げられており、最も有力視されている。
 ③吉田東伍による説
  植物の「ナラ(楢)」に由来する。吉田東伍による。植物のナラは、『万葉集』(7〜8世紀)や『播磨国風土記』(715年)にすでに見ら
  れる。角川日本地名大辞典はこの説も取り上げるが、楠原他はこの説を退ける。
 ④朝鮮語からの借用語とする説
  朝鮮語「나라(ナラ)」(国の意)からの借用語。おそらく松岡静雄を嚆矢とする。朝鮮語の影響があるのではないかという指摘は、
  すでに金沢庄三郎の『寧楽考』に見られる。ただし、どちらも比較されているのは近代朝鮮語である。しかし、そもそも古代朝鮮語
  の実態はほとんどわかっておらず、文献においてナラの語が確認できるのはようやく15世紀においてであり、この語が7世紀以前
  に存在したといういかなる確証もない。
 ⑤ツングース諸語との関連をみる説
  ツングース系のいくつかの言語や日本語(さらに、高句麗の言語)では na が「地」などの意味を表すが、「奈良」の語源はこれと
  関係するのではないかとみる説がある。

 3.平城京の読み方

 平城を「へいじょう」と読むか、「へいぜい」と読むかについては議論がある。
 戦後の学校の教科書において、平城京には「へいじょうきょう」と振り仮名が振られていた。その後、少なくとも1980年代には
 「へいじょうきょう」とともに「へいぜいきょう」の併記が、一部の出版社に見られるようになる。これは平城天皇が「へいぜい」と
 読むことや、漢字音で「平」が漢音の“へい”と呉音の“ひょう”、「城」が漢音の“せい”と呉音の“じょう”があり、この音を漢音に
 統一すると“へいぜい”になることによるものと見られている。ただし「京」を“きょう”と読むのは呉音である。 研究者を中心に
 「へいぜい」の読みが見受けられ、『国史大辞典』の見出しも「へいぜいきょう」であるが、一般には「へいじょう」が普及しており、
 奈良県の進める平城遷都1300年記念事業も「へいじょう」と発音されている。



コラム
奈良に因んだ和歌
多くの文献を参考にしました


 【原文】 あをによし 奈良の都は 咲く花の にほうがごとく 今盛りなり

 【現代語訳】 奈良の都は咲く花が美しく照り映えるように、今が真っ盛りである
 【作者】 小野老(おののおゆ)
 【出典】 万葉集
 【補足】 藤原氏がいよいよ政治の実権を握ろうとしていた時期に詠まれた和歌、「あをによし(青丹よし)」は奈良に架かる枕詞

 【原文】 いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重に匂ひぬるかな
 【現代語訳】 いにしえの昔の、奈良の都の八重桜が、今日は九重の宮中で、 ひときわ美しく咲き誇っています
 【作者】 伊勢大輔(いせのたいふ)
 【出典】 『詞花集』
 【補足】 作者の伊勢は、奈良から宮中に届けられた八重桜の献上品を宮中で受け取る役に抜擢された。その時、藤原道長から
       急に即興で詠めと言われ、即座に返したのがこの歌である。「九重」は、昔中国の王城は門を九重につくったところから。

 【原文】 あをによし 奈良の都は古りぬれど もとほとほととぎす 鳴かずあらなくに
 【現代語訳】 奈良の都は古めかしくなったけれど、なじみのホトトギスが鳴いてくれないわけはない
 【作者】 大伴家持(おおとものやかもち)

 【原文】 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
 【現代語訳】 天を仰いではるか遠くを眺めれば、月が昇っている。あの月は 奈良の春日にある、三笠山に昇っていたのと同じ月
          なのだなあ。

 【作者】 安倍仲麿、19歳の頃、遣唐使として中国の唐へ渡った留学生の一人。時の玄宗皇帝に気に入られ、中国名「朝衡」として
       50年以上仕えた。一度帰国を許されたが、途中で船が難破して引き返し、結局帰れぬまま唐の地で没した。

 【出典】 『古今集』
 【補足】 「三笠の山」は奈良市にある若草山の別名(標高342m

 【原文】 ふるさとの みかさの山はとほけれど 声は昔のうとからぬかな
 【現代語訳】 ふるさとの三笠の山は遠いけれど、(耳にする)話は昔のままで、よそよそしくはない…
 【作者】 藤原兼輔(ふじわらのかねすけ)
 【補足】 後撰和歌集

 【原文】 青丹よし 奈良の都に着きにけり 牡鹿鳴てふ奈良の都に
 【作者】 正岡子規(まさおか しき)
 【補足】 「青丹よし(あおによし)」は「奈良」に掛かる枕詞(まくらことば)、「てふ」は「という」の意味です。
 



コラム
奈良に因んだ俳句
多くの文献を参考にしました

【原文】 菊の香や 奈良には古き 仏たち
【季語】 菊の香(秋)
【作者】 松尾芭蕉(まつお ばしょう)
【出典】 杉風宛真蹟書簡(真蹟自画賛・笈日記)
【補足】 九月九日、奈良で重陽の節供を迎えての吟である

【原文】 柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺
【季語】 柿(秋)
【作者】 正岡子規(まさおか しき)
【出典】 寒山落木
【補足】 「くへば」は単に「食べていると」という事実を述べて下に続けているもので「鐘が鳴るなり」と因果関係があるわけではない。
      柿は大和名産の御所柿と思われる


【原文】 角落ちて 首傾けて 奈良の鹿
【季語】 角落ち()
【作者】 夏目漱石(なつめ そうせき)
【出典】 全集(昭和10年)で「正岡子規へ送りたる句稿」

【原文】 奈良七重 七堂伽藍 八重ざくら
【季語】 八重ざくら()
【作者】 松尾芭蕉(まつお ばしょう)
【補足】 伽藍(がらん)とは、寺院の建物の総称

【原文】 奈良の月 山出て寺の 上に来る
【季語】 ()
【作者】 山口誓子(やまぐち せいし)

【原文】 春の夜や 奈良の町家の 懸行燈
【季語】 春の夜()
【作者】 正岡子規(まさおか しき)
【補足】 懸行燈(かけあんどん)とは、屋号や商品名を書いて店先に掛けて看板代わりにしたもの

【原文】 薬師寺と 唐招提寺 鵙渡る
【季語】 ()
【作者】 前田 普羅(まえだ ふら)
【出典】 【補足】 鵙の読みは「もず」で、百舌、百舌鳥とも表記される




2日目
  平城宮跡と西ノ京(唐招提寺・薬師寺)

今日はバーチャル巡検「奈良・斑鳩の旅」の2日目中日である。先ず平城宮跡の北部にある佐紀古墳群を見学し、いよいよ平城宮跡で復元された第一次大極殿、朱雀門、東院庭園等を見学し、西ノ京に移動して、垂仁天皇陵、唐招提寺、薬師寺を訪ねる。考古ファン・古寺ファンには垂涎の1日である。

2日目 地図



佐紀古墳群

佐紀古墳群(佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)ともいう)は、佐保川西岸・佐紀の地に所在する古墳時代前期後葉から中期にかけて営まれたヤマト政権の王墓を多く含む古墳群である。

北西端には仲哀天皇の皇后(神功皇后)陵に治定された五社神古墳(ごさしこふん、267m)がある。西には佐紀石塚山古墳(成務天皇治定陵、)、佐紀陵山古墳(垂仁天皇妃・日葉酢媛(ひはすひめ)治定陵などがある。東(佐紀町・法華寺町)にはヒシアゲ古墳(磐之媛治定陵)、コナベ古墳、ウワナベ古墳などがある。


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左からヒシアゲ古墳、コナベ古墳、ウワナベ古墳

ヒシアゲ古墳(磐之媛命陵)の拝所

磐之媛命(いわのひめのみこと)は、古墳時代の皇妃。仁徳天皇の4人の皇后のうちのひとり。
皇族外の身分から皇后となった初例とされる。仁徳天皇の男御子5人のうちの4人(履中天皇
・住吉仲皇子・反正天皇・允恭天皇)の母。記紀によると磐之媛命はとても嫉妬深く、仁徳天皇
30年(342年)に、彼女が熊野に遊びに出た隙に夫の仁徳天皇が八田皇女(仁徳の異母妹。
磐之媛命崩御後、仁徳天皇の皇后)を宮中に入れたことに激怒し、山城の筒城宮に移り、同地で没した。万葉集には彼女の愛情の深さを表す歌が四首収められている。

  君が行き 日長くなりぬ 山たづね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ
  かくばかり 恋いつつあらずは 高山の 磐根し枕きて 死なましものを
  ありつつも 君をば待たむ 打ち靡く わが黒髪に 霜の置くまでに
  秋の田の 穂の上に霧らむ 朝霞 何処辺の方に わが恋い止まむ

2018年に日本山岳会山の自然学研究会の行事で実施した「難波と飛鳥の旅」の際に訪ねた
仁徳天皇陵(2019年に世界遺産に認定された)と今回の磐之媛命陵で、仁徳天皇・皇后陵を見学したことになる。



平城宮跡

飛鳥時代の京は、704年に完成した藤原京であった。その広大さは古代日本の都の中では最大規模で、持統天皇、文武天皇、そして元明天皇三代に引き継がれた。しかし、この藤原京は、たった16年でその首都としての役目を終えてしまう。その理由の1つは衛生上の問題である。藤原京の置かれた場所の地形は南が高く、北が低い地形となっていたため、京の北に位置する宮に汚水が流れやすい構造をしていた。そこで、710年元明天皇の時代に地形的に優れた平城京(第一次大極殿)への遷都が行われた。その後740年に山背国の恭仁京(くにきょう)へ、744年に難波京へ、745年に再び平城京へ(このときの大極殿を第二次大極殿という)、784年に長岡京へ、最後に794年に平安京へ遷都した。
平城宮跡は世界遺産「古都奈良の文化財」の一部として1998年に登録された。

平城宮跡歴史公園散策マップ

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                 第一次大極殿(復元)
第一次大極殿は、710年の平城京への遷都当初から740年に恭仁京へ遷都されるまでの間、天皇の即位や元日朝賀などの国家儀式、あるいは外国使節の歓迎の儀式がおこなわれた施設である。2010年(平成22年)に復元された。 

          高御座(たかみくら、レプリカ)
日本の天皇の玉座。皇位を象徴する調度品で、歴史的で伝統的な皇位継承儀式の即位の礼において用いられ、皇位と密接に結びついている。現在の高御座は、京都御所紫宸殿に常設されている。ここに展示されているのはレプリカである。


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                   朱雀門(復元)
平城京の入り口である羅生門をくぐると、幅75mの朱雀大路がまっすぐ北に向かってのびていて、その4km先には平城宮の正門である朱雀門が建っていた。1998年(平成10年)に復元された。

   朱雀門から南に出たところに停泊する復元遣唐使船
「復原」といっても、当時の正確な史料などは残されておらず、あくまでも「推定」のものとなっている。船体は全長30m・全幅9.6m・排水量300トン・積載荷重150トンというスケールで再現されいる。

                         遣唐使
「遣唐使」とは、奈良時代がはじまる前(飛鳥時代)から平安時代初頭にかけて当時の中国(唐が支配)に、日本から貴族や僧侶らを使節として派遣し中国の高度な文化・技術、また仏教の経典などを持ち帰ることを目的として行われていたもので、回数としては約250年間に20回程度実施されたものと考えられている。
有名な派遣者としては阿倍仲麻呂・ 吉備真備・太安万侶・山上憶良・最澄・空海といった人物が知られているが、随行者には医師や留学生、技術者や船の操舵を行う船員らなど含まれ、奈良時代には1隻100人を越え、更に数隻の船団を組んで東シナ海を渡るという比較的壮大なスケールで行われていた。

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                    東院庭園
1967年、平城宮東張出し部の南東隅に大きな庭園の遺跡が発見された。この場所は『続日本紀』にみえる「東院」にあたることから、発見された庭園は「東院庭園」となづけられた。東院庭園は東西80m×南北100mの敷地の中央に複雑な形の汀線をもつ洲浜敷の池を設け、その周囲にはいくつもの建物を配していたことが確認された。称徳天皇はこの近くに「東院玉殿」を建て、宴会や儀式を催した。現代の迎賓館に当たるものであった。

                 遺構展示館
遺構展示館に入ってすぐの位置にある巨大な遺構の展示は、1964年に発掘調査された「掘立柱」の柱穴の跡となっている。柱穴はあちこちに様々な形のものが密集するように設けられているが、この柱穴は一つの建物のものではなく、奈良時代の40年間ほどに同じ場所に複数の建物が建て替えられたという痕跡を示すものとなっている。


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この井戸の枠は、直径1.7mの杉の木がくり抜かれたもので、御所に当たる「内裏」に設置されていたもので、奈良時代の「本物」である。大きな井戸枠からは、当時の「水」需要を支えた役割に思いをはせることが出来る。

この第二次大極殿屋根は、「第二次大極殿」に用いられた瓦屋根を、出土した瓦なども利用して復原したもの。
 
 


                         復元と復原

文化財の世界では、復元は遺跡で発掘される建物の痕跡(遺構)から、上部構造を考えることを意味する。各地の遺跡で竪穴建物や古代建築が建てられ、近世城郭の天守や御殿なども「復元」されている。平城宮跡の第一次大極殿や朱雀門はこれに当たる。

これに対して復原は、文化財建造物の修理の際に用いる言葉です。多くの場合、建物は長い年月の間に増改築や改造が行われています。「復原」は建物の改造の痕跡をもとに、改造前の姿に戻すことを意味します。例えば、屋根が瓦葺(ぶ)きから後世に銅板葺きに変わっていたものを、元の姿に「ふくげん」するといった具合です。唐招提寺の平成の大修理で2009年に復原した。
                                    奈良文化財研究所 なぶんけんブログ より




コラム
平城京と平城宮
Wikipedia他を参考にしました

平城京は、都全体を指す。平城京の中で天皇が住む大内裏や役人たちが政務を執る政庁などがおかれた宮、いわゆる宮城を指して平城宮いう。

                               平城京

平城京ができたのは710年。元明天皇が律令制にもとづいた政治をおこなう中心地として、それまでの都だった藤原京から遷都し、新しい大規模な都をつくった。平城京のモデルとしたのは、その頃もっとも文化の進んでいた唐(中国)の長安である。東西約4.3km、南北約4.8kmの長方形の東側に、東西約1.6km、南北約2.1kmの外京を加えた総面積は約25km

都の南端にある羅城門から朱雀門までまっすぐにのびる朱雀大路は幅約74m。道路というより広場。この朱雀大路の西側を右京、東側を左京という。碁盤の目のように整然と区画されたスケールの大きな都には10万人以上の人が暮らしていた。
 


 
                                    平城宮

平城宮は平城京の中にあり、政治・儀式の場である大極殿・朝堂院、天皇のすまいである内裏、役所の日常的業務を行う官衙や宴会を行う庭園など、都を治める官公庁が集まったところであった。東西・南北ともに1 kmの東側に、東西250m,南北750mの張り出し部を持つ平城宮の周りには大垣がめぐらされ、朱雀門をはじめ12の門が置かれた。平城宮に入ることができたのは、皇族や貴族、役人や使用人など、ごく限られた人々であった。現在、特別史跡として、世界遺産を構成するひとつとして、だれもが自由に散策を楽しめる平城宮跡は、奈良時代の姿を思い浮かべながら、歴史のロマンを感じ取ることができる場所である。

なぜ? ふたつの大極殿

大極殿は、天皇の即位などの大切な儀式がおこなわれていた場所である。平城宮にはこの大極殿の跡が2つも残っている。なぜだろうか? 聖武天皇は740年から745年まで、現在の京都、大阪、滋賀と、都を転々と移し替えたが、その際それまであった大極殿を解体、移築した。745年には再び平城京を都としたが、このときには以前の大極殿があった東側に新しい大極殿を建てたからである。現在の平城宮跡にみられる「第一次大極殿」は元明天皇が建てた大極殿、「第二次大極殿」は聖武天皇が建てた大極殿である。
 

  

奈良時代前半の平城宮                        奈良時代後半の平城宮





宝来山古墳(垂仁天皇陵)

平城宮跡の南西約1.2kmのところにある近鉄橿原線の尼ヶ辻駅の近くに宝来山古墳がある。実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により第11代垂仁天皇陵に治定されている。全長227mの前方後円墳で全国で第20位の規模になる。宮内庁採集の埴輪により、古墳時代前期の4世紀後半頃の築造と推定される。


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西ノ京の一郭にあるこの古墳は、ヤマト王権の大王墓と目されるほか、周濠が同一水面で墳丘を一周する古墳としては初期事例になる点が注目される。 垂仁天皇陵の拝所
 
 

                      西ノ京
平城京の右京、つまり西部のことで平城京外の西方に位置する隣接地域を含んだ一帯を含んだエリアである朱雀大路の西にあたることに由来し、古くから用いられている言葉である。

かつてこのあたりには西大寺・喜光寺・唐招提寺・薬師寺などの大寺が連ねて栄えていたが、現代では大半は農地・宅地となり、薬師寺や唐招提寺などがわずかにその昔の栄華をしのばせる。西大寺から喜光寺を経て、垂仁天皇陵東部を通り、唐招提寺に向かう道は、「歴史の道」として整備され、古刹を訪ねながら歩く観光道となっている。1966年12月14日、歴史的風土保存区域に指定された。




唐招提寺

唐招提寺(とうしょうだいじ)は、南都六宗の1つである律宗の総本山である。本尊は廬舎那仏、開基(創立者)は鑑真である。井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった中国・唐出身の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂を始め、多くの文化財を有する。1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。

唐招提寺境内案内

                                     唐招提寺金堂(国宝)
奈良時代建立の寺院金堂としては現存唯一のものである。「平成の大修理」が行われ、2009年に落慶行事が行われた。平成の大修理に伴う調査の結果、当初材が良好に残存していることが分かった。金堂の部材には西暦781年に伐採されたヒノキ材が使用されている。堂内は、中央に本尊・盧舎那仏坐像、右に薬師如来立像、左に千手観音立像(いずれも国宝)が並ぶ姿は、天平時代を彷彿させる厳かな雰囲気に包まれている。

多くの寺院の本堂(金堂)が入母屋造である中で、唐招提寺金堂は寄棟造である。そのため屋根のシルエットがシンプルである。ここは鑑真和上個人の寺だったためであろう。昔は入母屋造りの方が格が高かったのである。大棟の左右に鴟尾(しび)が飾られている。このうち西側の鴟尾は創建当初のもので、東側は鎌倉時代の元亨3年(1323年)の補作であったが、いずれの鴟尾も劣化が甚だしいため、平成の大修理に伴い、屋根上から下ろして別途保管することとなり、屋根上には新しい鴟尾が飾られている。


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寺院の屋根の主要な4つの形式 金堂の大棟西端に据えられていた鴟尾。金堂創建時以来
1250年余の間、風雪に耐えてきた。

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               唐招提寺講堂(国宝)
天平宝字4年(760年)頃、平城宮の東朝集殿を移築・改造したもの。奈良時代宮廷建築の唯一の遺構として極めて貴重である。
 
 

              唐招提寺御影堂(重要文化財)
興福寺の別当坊だった一乗院宸殿の遺構で、現在は、鑑真和上坐像(国宝)が奉安されており、東山魁夷の鑑真和上坐像厨子扉絵、ふすま絵、障壁画が収められている。平成大修理事業のため、鑑真和上坐像は新宝蔵に遷座した。


A            鑑真和上と唐招提寺

唐招提寺(とうしょうだいじ)は、中国・唐出身の僧鑑真が建立し、晩年を過ごした寺院。鑑真は仏教者に戒律を授ける「導師」として日本に招請された。当時の日本ではこうした正式の授戒の制度は整備されておらず、授戒資格のある僧も不足していた。こうした中、天平5年(733年)、遣唐使と共に渡唐した普照と栄叡という留学僧が『日本には正式の導師がいないので、しかるべき高僧を推薦いただきたい』と鑑真に申し出た。鑑真の弟子達は渡航の危険などを理由に渡日を拒んだ。弟子達の内に渡日の志をもつ者がいないことを知った鑑真は、自ら渡日することを決意する。しかし、748年の5回目の渡航計画で嵐に遭って船が漂流し、中国最南端の海南島まで流されてしまった。陸路揚州へ戻る途中、それまで行動を共にしてきた栄叡が病死し、鑑真自らは失明するという苦難を味わった。753年、6回目の渡航計画でようやく来日に成功するが、鑑真は当時既に66歳になっていた。鑑真は日本で過ごした晩年の10年間の内、天平宝字3年(759年)、今の唐招提寺の地を与えられた。大僧都に任じられ、天平宝字7年(763年)5月、波乱の生涯を日本で閉じた。享年76であった。

この辺の事情は、井上靖の小説『天平の甍』に描かれている。なお、世界遺産「古都奈良の文化財」の一部として登録されている。

                  鑑真和上座像(国宝)
高さ80.1cm。日本最古の肖像彫刻であり、天平時代を代表する彫刻である。
鑑真和上の不屈の精神まで感じさせる傑作。今も鮮やかな彩色が残っている。




薬師寺

薬師寺(やくしじ)は、興福寺とともに法相宗の大本山である。南都七大寺のひとつに数えられる。本尊は薬師如来。天武天皇9年(680年)、天武天皇の発願により、飛鳥の藤原京(奈良県橿原市)の地に造営が開始され、平城遷都後の8世紀初めに現在地の西ノ京に移転したものである。世界遺産「古都奈良の文化財」の一部として登録されている。
20世紀半ばまでの薬師寺には、江戸時代後期仮再建の金堂、講堂が建ち、創建当時の伽藍をしのばせるものは焼け残った東塔だけであった。1960年代以降、名物管長として知られた高田好胤(たかだこういん)が中心となって白鳳伽藍復興事業が進められてきた。1976年に金堂が再建されたのをはじめ、西塔、中門、回廊の一部、大講堂、食堂などが次々と再建された。

薬師寺伽藍図

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薬師寺南門の回廊から見る右側の東塔(国宝)と左側の西塔

金堂(国宝)


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薬師寺西塔 薬師寺東塔(国宝)

薬師三尊像(国宝)  左から月光菩薩、薬師如来、日光菩薩


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                          玄奘三蔵院伽藍
平山郁夫氏は、先の戦争や原爆被爆の体験から、終生「平安と鎮魂」を求め、平和の道としてシルクロードを描いた日本画家である。薬師寺に奉納された壮大なスケールの『大唐西域壁画』は、年に4回の期間限定で拝観が可能。壁画殿内は一切撮影禁止であるが、その一部を朝日新聞デジタルの画像から紹介する。
 平山 郁夫(ひらやま いくお、1930年 - 2009年) 日本画家、教育者。 日本美術院理事長、
第6代・第8代東京藝術大学学長を務めた。文化勲章受章者。

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第1画面 「明けゆく長安大雁塔・中国」 第2画面 「嘉峪関を行く・中国」 第7画面 「ナーランダの月・インド」

第4画面「西方浄土須弥山」




コラム
飛鳥文化、白鳳文化、天平文化の特徴
Wikipedia他を参考にしました
文化名 飛鳥文化 白鳳文化 天平文化
時期

仏教伝来(358年)~大化の改新(646年)

大化の改新(646年)~平城京遷都(710年)

平城京遷都(710年)~8世紀中頃
文化名の由来 飛鳥に都があった時代 日本書紀に現れない元号、続日本紀に使用された元号(白鳳) 聖武天皇のときの元号(天平)
時代背景 百済から仏教が伝来した。仏教受容の先頭を切った蘇我氏が、反対する物部氏に勝利。聖徳太子が仏教を広めるために日本各地に寺院を建てた。 大宝律令が制定され、律令国家が建設される時代。本格的中国風都城の藤原京を中心とした天皇や貴族中心の華やかな文化が栄えた。 遣唐使により唐の文化が積極的に取り入れられた。中国風・仏教風の文化が列島に浸透した。西アジアの文物も唐を通じて日本にもたらされた。
文化の特徴

仏教文化の黎明期にあたる。
この時代の仏像は後世の日本の仏像と異なり、やや不自然なバランスになっている。北魏様式が目立つ。工芸品としては「玉虫厨子」がある。

仏像は自然な肉付きになり、現在の仏像に近い状態になる。初唐様式の影響を受ける。銅造が主流となっていいく。白鳳文化時期の古墳には、色彩豊かな壁画が注目を集める。

唐や西アジアから学んだ文化に日本的な個性が加わり、壮大で華やかな文化となった。
乾漆造の仏像が大陸からもたらされた。「万葉集」は天平文化の時期に完成した。

寺院の例
四天王寺
昭和38年鉄筋コンクリート造で再建


飛鳥寺
本堂の位置に再建された安居院本堂


法隆寺西院伽藍
飛鳥様式で白鳳時代に再建

薬師寺東塔
白鳳様式で奈良時代初期に再建


法隆寺東院伝法堂

唐招提寺金堂


正倉院宝庫(校倉造)


法隆寺東院夢殿

美術品の例

(重要文化財と記した
以外は国宝)


飛鳥寺釈迦如来(飛鳥大仏)(重要文化財)


法隆寺百済観音像


中宮寺半跏思惟像


中宮寺半跏思惟像(部分)

薬師寺薬師三尊像
月光菩薩、薬師如来、日光菩薩


薬師寺東院堂聖観音像


金堂6号壁阿弥陀浄土図
焼失前


高松塚古墳壁画
西壁女子群像

阿修羅像/八部衆像の1


月光菩薩立像 日光菩薩立像


唐招提寺金堂廬舎那仏座像


鑑真和上像




3日目
  斑鳩の里(藤ノ木古墳・法隆寺・中宮寺)

今日はバーチャル巡検「奈良・斑鳩の旅」の最終日。ホテルを早く出て、近鉄奈良駅前8:20発の奈良交通バスに乗り、法隆寺前バス停に向かう。藤ノ木古墳、斑鳩文化財センター、法隆寺、中宮寺を巡り、近鉄奈良駅前に戻ってきて解散。「奈良」とは一味違う「斑鳩の里」めぐりである。

3日目 地図

藤ノ木古墳

藤ノ木古墳(ふじのきこふん)は奈良県生駒郡斑鳩町にある古墳(円墳)。玄室内から大量に出土した土師器、須恵器の年代から6世紀第4四半期の円墳であると推定されている。古墳は法隆寺西院伽藍の西方約350mに位置する。現在は周辺が公園として整備されている。また、古墳から南へ200mほど行くと、ガイダンス施設(斑鳩文化財センター)があり、主な出土品のレプリカが展示されている。

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 藤ノ木古墳は直径50m余の円墳 未盗掘の横穴式石室で、窓越しに石室内を見ることができる




斑鳩文化財センター

藤ノ木古墳から200mほどのところにあり、藤ノ木古墳出土品の主なもの60点のレプリカが展示されている。

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斑鳩文化財センターの外観と展示、

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こんどうせいくらかなぐ まえわ 
金銅製鞍金具 (前輪)
こんどうせいくらかなぐ しずわ
金銅製鞍金具 (後輪)

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こんどうせいくつ  
金銅製履 (A)
                   こんどうせいつつがたひん
                  金銅製筒形品  用途不明である

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 2人の被葬者の安置状況        棺内遺物出土状況
 
     かんじょうにゅうがもんたいしんじゅうきょう
 (左) 環状乳画文帯神獣鏡  
     じゅうたいきょう
  (右)  獣帯鏡    

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40個出土した須恵器は6世紀第4四半期のものと考えられる 11個出土した土師器は器種に偏りがあるので葬送儀礼用と考えられる

石棺のレプリカ  二上山産の凝灰岩に水銀朱塗りの刳抜式家形石棺



法隆寺

法隆寺は、奈良県斑鳩町にある寺院。7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院である。創建は金堂薬師如来像光背銘から推古15年(607年)とされる。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7000mで、西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。法隆寺の建築物群は、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」として日本最初の世界遺産(文化遺産)に登録された。

『日本書紀』によれば、聖徳太子こと厩戸皇子(用明天皇の皇子)は推古9年(601年)、飛鳥からこの地に移ることを決意し、宮室(斑鳩宮)の建造に着手、推古13年(605年)に斑鳩宮に移り住んだという。この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺、すなわち法隆寺であった。『日本書紀』には天智9年(670年)に法隆寺が全焼したという記事のあることから、現存する法隆寺の伽藍は火災で一度失われた後に再建されたものではないかという意見(再建論)が明治20年(1887年)頃から出されるようになった。これに対し、『書紀』の記載は信用できず、西院伽藍は推古朝以来焼けていないと主張する学者たちもおり、両者の論争(法隆寺再建・非再建論争)はその後数十年間続いた。その後、再建論に軍配が上がった形である。ただし、いくつかの疑問が残されている。


法隆寺・中宮寺境内図

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法隆寺航空写真 法隆寺式伽藍配置であることが分る 日本の寺院の伽藍配置の変遷

                 中門(国宝)から見える五重塔(国宝)
中門は入母屋造の二重門。日本の寺院の門は正面の柱間が奇数(3間、5間等)になるのが普通だが、この門は正面柱間が4間で、真中に柱が立つ点が特異である。


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              五重塔(国宝)と金堂(国宝)
金堂は入母屋造の二重仏堂。金堂の壁画は日本の仏教絵画の代表作として国際的に著名なものであったが、1949年、壁画模写作業中の火災により、初層内陣の壁と柱を焼損した。
金堂6号壁阿弥陀浄土図(焼失前)
 
 
 

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              五重塔(国宝)
木造五重塔として現存世界最古のもの。初重から五重までの屋根の逓減率(大きさの減少する率)が高いことがこの塔の特色で、五重の屋根の一辺は初重屋根の約半分である。

夢殿(国宝)
奈良時代の建立の八角円堂。堂内に聖徳太子の等身像とされる救世観音像を安置する

 
 


A A A
玉虫厨子(国宝) 観音菩薩立像(救世観音)(国宝) 木造観音菩薩像(百済観音)(国宝) 銅造観音菩薩像(夢違観音)(国宝)



中宮寺

中宮寺は、法隆寺に隣接する、聖徳太子ゆかりの尼寺である。7世紀前半の創建と推定されるが、創建の詳しい事情は不明である。江戸時代初期の慶長7年(1602年)、慈覚院宮を初代門跡に迎え、以後門跡尼寺として今日に至っている(門跡寺院とは、代々皇族、貴族などが住持する格式の高い寺のこと)。

                            中宮寺本堂
創建当時の中宮寺跡は現境内の東方約400mにあり、国の史跡に指定されている。高松宮妃の発願で1968年(昭和43年)に建立した和風の現代建築である。


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木造菩薩半跏像(国宝)

木造菩薩半跏像(部分)

                     木造菩薩半跏像(国宝)
中宮寺の本尊。飛鳥時代の作。像高132cm(左脚を除く坐高は87cm)。寺伝では如意輪観音だが、これは平安時代以降の名称で、当初は弥勒菩薩像として造立されたものと思われる。半跏思惟のこの像は、飛鳥時代の彫刻の最高傑作であると同時に、わが国美術史上、欠かすことの出来ない地位を占める作品である。また国際美術史学者間では、この像の顔の優しさを評して、数少い「古典的微笑(アルカイックスマイル)」の典型として高く評価され、エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ作のモナリザと並んで「世界の三つの微笑像」とも呼ばれいる。
半跏の姿勢で左の足を垂れ、右の足を膝の上に置き、右手を曲げて、その指先きをほのかに頬に触れんばかりの優美な造形は、いかにも人間の救いをいかにせんと思惟されるにふさわしい清純な気品をたたえている。
広隆寺の弥勒菩薩半跏像とよく比較される。広隆寺のそれはどこか庶民的で人なつっこく、人を引き寄せる魅力があるのに対して、中宮寺のそれは凛として気高く、ちょっと近寄りがたい雰囲気があるともいわれる。
この辺の事情は、和辻 哲郎著「古寺巡礼」に詳しい。



バーチャル巡検 ---- 奈良・斑鳩の旅」 をご覧下さって、有難うございました。

昨年の「
巡検 ----難波と飛鳥の旅 」に引き続き、今年の「奈良・斑鳩の旅」もご案内したかったのですが、健康上の理由でそれが叶わなくなり残念です。
でも、皆さんに少しでも楽しんで頂ければ、幸いです。



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