バーチャル巡検 ---- 奈良・斑鳩の旅 |
奈良公園(興福寺・東大寺・奈良国立博物館・春日大社)、平城宮跡と西ノ京(唐招提寺・薬師寺)、斑鳩の里(藤ノ木古墳・法隆寺・中宮寺) |
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復元された第一次大極殿 奈良時代、大極殿は天皇の即位式や外国からの使節に対する賜饗の儀、元日の朝、天皇が群臣の拝賀を受ける朝賀の儀など、国家的行事に際して使用された。平城宮に存在した2つの大極殿のうち、第一次大極殿は、平城京への遷都以降、天平12年(740)、都が恭仁京へ遷都するまでのあいだに使われた宮殿。平城遷都1300年の年に当たる2010年に復元された。その規模は東西約44m、南北約20m、高さ約27m |
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1日目 |
奈良公園 (興福寺、東大寺、奈良国立博物館、春日大社) |
今日はバーチャル巡検「奈良・斑鳩の旅」の初日。全国各地から近鉄奈良駅に集合し、奈良で最もポピュラーな奈良公園と呼ばれるエリアで、興福寺、東大寺、奈良国立博物館、春日大社を巡る。 |
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興福寺 |
興福寺(こうふくじ)は、法相宗の大本山の仏教寺院である。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。世界遺産「古都奈良の文化財」の一部として1998年に登録された。
藤原鎌足夫人の鏡大王が夫の病気平癒を願い、天智天皇8年(669年)山背国山階に創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。和銅3年(710年)の平城京への遷都に際し、鎌足の子不比等は現在地に移転し「興福寺」と名付けた。この710年が実質的な興福寺の創建年と言える。 江戸時代は2万1,000石の寺領を与えられ保護された。慶応4年(1868年)に出された神仏分離令は、全国に廃仏毀釈の嵐を巻き起こし、春日社と一体の信仰(神仏習合)が行われていた興福寺は大きな打撃をこうむった。一時は廃寺同然となり、五重塔さえ売りに出る始末だったという。 |
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猿沢池は、興福寺が行う「放生会」の放生池として、天平21年(749年)に造られた周囲360mの人工池。興福寺五重塔が周囲の柳と |
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興福寺周辺地図と散策路 | 猿沢池と興福寺五重塔 |
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再建された中金堂 |
(左)東金堂と(右)五重塔(いずれも国宝) 五重塔は、光明皇后の発願により、天平2年(730年)に創建された。現存する興福寺五重塔は、室町時代中期・応永33年(1426年)の再建。高さ50.1m |
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北円堂(国宝) |
南円堂(重文) |
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国宝館 僧侶が集団で食事する食堂が建てられていた場所に、1959年に鉄筋コンクリート造りの宝物収蔵庫として建てられた。右の彫刻などが収蔵されている。 |
阿修羅像/八部衆像の1躯(国宝) |
うんぎょう あぎょう 金剛力士像(吽形)(国宝) 金剛力士像(阿形) 国宝) もと鎌倉時代再興期に西金堂須弥壇上に安置されていた。定慶作とする説もある。 |
東大寺 |
東大寺は、華厳宗大本山の寺院である。奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とする。奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70m以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。また現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けされた。 東大寺は世界遺産「古都奈良の文化財」の一部として1998年に登録された。 |
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南大門(国宝) 平安時代の応和2年(962年)8月に台風で倒壊後、鎌倉時代の正治元年(1199年)に復興されたもの。南大門の入口左右には、金剛力士像(国宝)が安置されている。高さ8.4mの巨大な木像。建仁3年(1203年)に、わずか69日で造られた。門の向かって右に吽形(うんぎょう、口を閉じた像)、左に阿形(あぎょう、口を開いた像)を安置する。これは一般的な仁王像の安置方法とは左右逆である。 |
金堂(大仏殿)(国宝) |
大仏の歴史 | ||
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制作は以上で完了した訳ではなく、鋳造後の表面の仕上げ、螺髪の取り付け、像表面の鍍金(金メッキ)、光背の制作など、他にも多くの工程があり、これだけの巨像を造立するには想像を絶する困難があったものと思われる。作業中の事故や、鍍金の溶剤として用いられた水銀の中毒により多くの人命が失われたとも言われる。銅に含まれていた砒素と鍍金に使用された水銀による推定数百人の中毒患者のため、これを専門とする救護院が設けられていた。 |
大仏(盧舎那仏像)(国宝) |
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二月堂(国宝) |
三月堂(法華堂)(国宝) |
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東大寺ミュージアム |
(左)月光菩薩立像(国宝) |
正倉院(国宝) |
薬師如来にまつわる伝記では、薬師如来像は2人の子供がいて、その子供の名前が「月光」「日光」と呼ばれていたと云われ、つまりは月光菩薩、日光菩薩のことを指す。こちらの日光菩薩・月光菩薩立像は、元々日光・月光菩薩像として造られたものではなく、梵天・帝釈天像だったのではないかとも考えられている。 |
奈良国立博物館 |
奈良国立博物館は、独立行政法人国立文化財機構が運営する博物館である。仏教美術を中心とした文化財の収集、保管、研究、展示を行うとともに、講演会や出版活動などを通じた普及活動を行うことを主たる活動内容としている。館は1895年(明治28年)、帝国奈良博物館として開館した。奈良国立博物館という名称に変わったのは1952年(昭和27年)からである。1922年に来日していたアインシュタインが来館している。当日の日記には日本の芸術について深い印象を覚えた旨が記された。 |
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奈良国立博物館 なら仏像館 |
薬師如来坐像(国宝) |
日本書紀 巻第十残巻(国宝) |
春日大社 |
春日大社は、中臣氏(のちの藤原氏)の氏神を祀るために768年に創設された神社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。全国に約1000社ある春日神社の総本社である。世界遺産「古都奈良の文化財」の1つとして登録されている。 平城京に遷都された710年(和銅3年)、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山(みかさやま)に遷して祀り、春日神と称したのに始まるとする説もある。藤原氏の隆盛とともに当社も隆盛した。平安時代初期には官祭が行われるようになった。当社の例祭である春日祭は、賀茂神社の葵祭、石清水八幡宮の石清水祭とともに三勅祭の一つとされる。 藤原氏の氏神・氏寺の関係から興福寺との関係が深く、神仏習合が進むにつれ、春日大社と興福寺は一体のものとなっていった。1946年(昭和21年)の近代社格制度の廃止に伴い、そのままでは単に「春日神社」となって他の多くの春日神社と混同することを避けるために現在の「春日大社」に改称した。 |
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南門(重要文化財) 南門は春日大社正面の楼門でである。表参道を歩いて回廊内に 入る時に潜る門で、 高さは12mあり春日大社最大の門である。 |
御本殿には4つの御祭神が祀られている 第一殿 武甕槌命(たけみかづちのみこと)
第二殿 経津主命(ふつぬしのみこと)
第三殿 天児屋根命(あめのこやねのみこと)
第四殿 比売神(ひめがみ)
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ホテルフジタ奈良は、JR奈良駅と近鉄奈良駅の中間にあり、 いずれからも徒歩約5分 |
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2日目 |
平城宮跡と西ノ京(唐招提寺・薬師寺) |
今日はバーチャル巡検「奈良・斑鳩の旅」の2日目中日である。先ず平城宮跡の北部にある佐紀古墳群を見学し、いよいよ平城宮跡で復元された第一次大極殿、朱雀門、東院庭園等を見学し、西ノ京に移動して、垂仁天皇陵、唐招提寺、薬師寺を訪ねる。考古ファン・古寺ファンには垂涎の1日である。 |
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佐紀古墳群 |
佐紀古墳群(佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)ともいう)は、佐保川西岸・佐紀の地に所在する古墳時代前期後葉から中期にかけて営まれたヤマト政権の王墓を多く含む古墳群である。
北西端には仲哀天皇の皇后(神功皇后)陵に治定された五社神古墳(ごさしこふん、267m)がある。西には佐紀石塚山古墳(成務天皇治定陵、)、佐紀陵山古墳(垂仁天皇妃・日葉酢媛(ひはすひめ)治定陵などがある。東(佐紀町・法華寺町)にはヒシアゲ古墳(磐之媛治定陵)、コナベ古墳、ウワナベ古墳などがある。 |
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左からヒシアゲ古墳、コナベ古墳、ウワナベ古墳 |
ヒシアゲ古墳(磐之媛命陵)の拝所 |
磐之媛命(いわのひめのみこと)は、古墳時代の皇妃。仁徳天皇の4人の皇后のうちのひとり。 皇族外の身分から皇后となった初例とされる。仁徳天皇の男御子5人のうちの4人(履中天皇 ・住吉仲皇子・反正天皇・允恭天皇)の母。記紀によると磐之媛命はとても嫉妬深く、仁徳天皇 30年(342年)に、彼女が熊野に遊びに出た隙に夫の仁徳天皇が八田皇女(仁徳の異母妹。 磐之媛命崩御後、仁徳天皇の皇后)を宮中に入れたことに激怒し、山城の筒城宮に移り、同地で没した。万葉集には彼女の愛情の深さを表す歌が四首収められている。 君が行き 日長くなりぬ 山たづね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ かくばかり 恋いつつあらずは 高山の 磐根し枕きて 死なましものを ありつつも 君をば待たむ 打ち靡く わが黒髪に 霜の置くまでに 秋の田の 穂の上に霧らむ 朝霞 何処辺の方に わが恋い止まむ 2018年に日本山岳会山の自然学研究会の行事で実施した「難波と飛鳥の旅」の際に訪ねた 仁徳天皇陵(2019年に世界遺産に認定された)と今回の磐之媛命陵で、仁徳天皇・皇后陵を見学したことになる。 |
平城宮跡 |
飛鳥時代の京は、704年に完成した藤原京であった。その広大さは古代日本の都の中では最大規模で、持統天皇、文武天皇、そして元明天皇三代に引き継がれた。しかし、この藤原京は、たった16年でその首都としての役目を終えてしまう。その理由の1つは衛生上の問題である。藤原京の置かれた場所の地形は南が高く、北が低い地形となっていたため、京の北に位置する宮に汚水が流れやすい構造をしていた。そこで、710年元明天皇の時代に地形的に優れた平城京(第一次大極殿)への遷都が行われた。その後740年に山背国の恭仁京(くにきょう)へ、744年に難波京へ、745年に再び平城京へ(このときの大極殿を第二次大極殿という)、784年に長岡京へ、最後に794年に平安京へ遷都した。 平城宮跡は世界遺産「古都奈良の文化財」の一部として1998年に登録された。 |
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第一次大極殿(復元) |
高御座(たかみくら、レプリカ) |
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朱雀門(復元) |
朱雀門から南に出たところに停泊する復元遣唐使船 「復原」といっても、当時の正確な史料などは残されておらず、あくまでも「推定」のものとなっている。船体は全長30m・全幅9.6m・排水量300トン・積載荷重150トンというスケールで再現されいる。 |
遣唐使 「遣唐使」とは、奈良時代がはじまる前(飛鳥時代)から平安時代初頭にかけて当時の中国(唐が支配)に、日本から貴族や僧侶らを使節として派遣し中国の高度な文化・技術、また仏教の経典などを持ち帰ることを目的として行われていたもので、回数としては約250年間に20回程度実施されたものと考えられている。 有名な派遣者としては阿倍仲麻呂・ 吉備真備・太安万侶・山上憶良・最澄・空海といった人物が知られているが、随行者には医師や留学生、技術者や船の操舵を行う船員らなど含まれ、奈良時代には1隻100人を越え、更に数隻の船団を組んで東シナ海を渡るという比較的壮大なスケールで行われていた。 |
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東院庭園 |
遺構展示館 |
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この井戸の枠は、直径1.7mの杉の木がくり抜かれたもので、御所に当たる「内裏」に設置されていたもので、奈良時代の「本物」である。大きな井戸枠からは、当時の「水」需要を支えた役割に思いをはせることが出来る。 |
この第二次大極殿屋根は、「第二次大極殿」に用いられた瓦屋根を、出土した瓦なども利用して復原したもの。 |
復元と復原 文化財の世界では、復元は遺跡で発掘される建物の痕跡(遺構)から、上部構造を考えることを意味する。各地の遺跡で竪穴建物や古代建築が建てられ、近世城郭の天守や御殿なども「復元」されている。平城宮跡の第一次大極殿や朱雀門はこれに当たる。 これに対して復原は、文化財建造物の修理の際に用いる言葉です。多くの場合、建物は長い年月の間に増改築や改造が行われています。「復原」は建物の改造の痕跡をもとに、改造前の姿に戻すことを意味します。例えば、屋根が瓦葺(ぶ)きから後世に銅板葺きに変わっていたものを、元の姿に「ふくげん」するといった具合です。唐招提寺の平成の大修理で2009年に復原した。 |
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宝来山古墳(垂仁天皇陵) |
平城宮跡の南西約1.2kmのところにある近鉄橿原線の尼ヶ辻駅の近くに宝来山古墳がある。実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により第11代垂仁天皇陵に治定されている。全長227mの前方後円墳で全国で第20位の規模になる。宮内庁採集の埴輪により、古墳時代前期の4世紀後半頃の築造と推定される。 |
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西ノ京の一郭にあるこの古墳は、ヤマト王権の大王墓と目されるほか、周濠が同一水面で墳丘を一周する古墳としては初期事例になる点が注目される。 | 垂仁天皇陵の拝所 |
西ノ京 かつてこのあたりには西大寺・喜光寺・唐招提寺・薬師寺などの大寺が連ねて栄えていたが、現代では大半は農地・宅地となり、薬師寺や唐招提寺などがわずかにその昔の栄華をしのばせる。西大寺から喜光寺を経て、垂仁天皇陵東部を通り、唐招提寺に向かう道は、「歴史の道」として整備され、古刹を訪ねながら歩く観光道となっている。1966年12月14日、歴史的風土保存区域に指定された。 |
唐招提寺 |
唐招提寺(とうしょうだいじ)は、南都六宗の1つである律宗の総本山である。本尊は廬舎那仏、開基(創立者)は鑑真である。井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった中国・唐出身の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂を始め、多くの文化財を有する。1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。 |
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唐招提寺金堂(国宝) |
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寺院の屋根の主要な4つの形式 | 金堂の大棟西端に据えられていた鴟尾。金堂創建時以来 1250年余の間、風雪に耐えてきた。 |
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唐招提寺講堂(国宝) |
唐招提寺御影堂(重要文化財) |
A | 鑑真和上と唐招提寺 唐招提寺(とうしょうだいじ)は、中国・唐出身の僧鑑真が建立し、晩年を過ごした寺院。鑑真は仏教者に戒律を授ける「導師」として日本に招請された。当時の日本ではこうした正式の授戒の制度は整備されておらず、授戒資格のある僧も不足していた。こうした中、天平5年(733年)、遣唐使と共に渡唐した普照と栄叡という留学僧が『日本には正式の導師がいないので、しかるべき高僧を推薦いただきたい』と鑑真に申し出た。鑑真の弟子達は渡航の危険などを理由に渡日を拒んだ。弟子達の内に渡日の志をもつ者がいないことを知った鑑真は、自ら渡日することを決意する。しかし、748年の5回目の渡航計画で嵐に遭って船が漂流し、中国最南端の海南島まで流されてしまった。陸路揚州へ戻る途中、それまで行動を共にしてきた栄叡が病死し、鑑真自らは失明するという苦難を味わった。753年、6回目の渡航計画でようやく来日に成功するが、鑑真は当時既に66歳になっていた。鑑真は日本で過ごした晩年の10年間の内、天平宝字3年(759年)、今の唐招提寺の地を与えられた。大僧都に任じられ、天平宝字7年(763年)5月、波乱の生涯を日本で閉じた。享年76であった。 この辺の事情は、井上靖の小説『天平の甍』に描かれている。なお、世界遺産「古都奈良の文化財」の一部として登録されている。 |
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鑑真和上座像(国宝) |
薬師寺 |
薬師寺(やくしじ)は、興福寺とともに法相宗の大本山である。南都七大寺のひとつに数えられる。本尊は薬師如来。天武天皇9年(680年)、天武天皇の発願により、飛鳥の藤原京(奈良県橿原市)の地に造営が開始され、平城遷都後の8世紀初めに現在地の西ノ京に移転したものである。世界遺産「古都奈良の文化財」の一部として登録されている。 20世紀半ばまでの薬師寺には、江戸時代後期仮再建の金堂、講堂が建ち、創建当時の伽藍をしのばせるものは焼け残った東塔だけであった。1960年代以降、名物管長として知られた高田好胤(たかだこういん)が中心となって白鳳伽藍復興事業が進められてきた。1976年に金堂が再建されたのをはじめ、西塔、中門、回廊の一部、大講堂、食堂などが次々と再建された。 |
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薬師寺南門の回廊から見る右側の東塔(国宝)と左側の西塔 |
金堂(国宝) |
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薬師寺西塔 | 薬師寺東塔(国宝) |
薬師三尊像(国宝) 左から月光菩薩、薬師如来、日光菩薩 |
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玄奘三蔵院伽藍 平山郁夫氏は、先の戦争や原爆被爆の体験から、終生「平安と鎮魂」を求め、平和の道としてシルクロードを描いた日本画家である。薬師寺に奉納された壮大なスケールの『大唐西域壁画』は、年に4回の期間限定で拝観が可能。壁画殿内は一切撮影禁止であるが、その一部を朝日新聞デジタルの画像から紹介する。 |
平山 郁夫(ひらやま いくお、1930年 - 2009年) 日本画家、教育者。 日本美術院理事長、 第6代・第8代東京藝術大学学長を務めた。文化勲章受章者。 |
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第1画面 「明けゆく長安大雁塔・中国」 | 第2画面 「嘉峪関を行く・中国」 | 第7画面 「ナーランダの月・インド」 |
第4画面「西方浄土須弥山」 |
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3日目 |
斑鳩の里(藤ノ木古墳・法隆寺・中宮寺) |
今日はバーチャル巡検「奈良・斑鳩の旅」の最終日。ホテルを早く出て、近鉄奈良駅前8:20発の奈良交通バスに乗り、法隆寺前バス停に向かう。藤ノ木古墳、斑鳩文化財センター、法隆寺、中宮寺を巡り、近鉄奈良駅前に戻ってきて解散。「奈良」とは一味違う「斑鳩の里」めぐりである。 |
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藤ノ木古墳 |
藤ノ木古墳(ふじのきこふん)は奈良県生駒郡斑鳩町にある古墳(円墳)。玄室内から大量に出土した土師器、須恵器の年代から6世紀第4四半期の円墳であると推定されている。古墳は法隆寺西院伽藍の西方約350mに位置する。現在は周辺が公園として整備されている。また、古墳から南へ200mほど行くと、ガイダンス施設(斑鳩文化財センター)があり、主な出土品のレプリカが展示されている。 |
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藤ノ木古墳は直径50m余の円墳 | 未盗掘の横穴式石室で、窓越しに石室内を見ることができる |
斑鳩文化財センター |
藤ノ木古墳から200mほどのところにあり、藤ノ木古墳出土品の主なもの60点のレプリカが展示されている。 |
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斑鳩文化財センターの外観と展示、 |
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こんどうせいくらかなぐ まえわ 金銅製鞍金具 (前輪) |
こんどうせいくらかなぐ しずわ 金銅製鞍金具 (後輪) |
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こんどうせいくつ 金銅製履 (A) |
こんどうせいつつがたひん 金銅製筒形品 用途不明である |
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2人の被葬者の安置状況 棺内遺物出土状況 |
かんじょうにゅうがもんたいしんじゅうきょう (左) 環状乳画文帯神獣鏡 |
じゅうたいきょう (右) 獣帯鏡 |
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40個出土した須恵器は6世紀第4四半期のものと考えられる | 11個出土した土師器は器種に偏りがあるので葬送儀礼用と考えられる |
石棺のレプリカ 二上山産の凝灰岩に水銀朱塗りの刳抜式家形石棺 |
法隆寺 |
法隆寺は、奈良県斑鳩町にある寺院。7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院である。創建は金堂薬師如来像光背銘から推古15年(607年)とされる。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7000m2で、西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。法隆寺の建築物群は、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」として日本最初の世界遺産(文化遺産)に登録された。
『日本書紀』によれば、聖徳太子こと厩戸皇子(用明天皇の皇子)は推古9年(601年)、飛鳥からこの地に移ることを決意し、宮室(斑鳩宮)の建造に着手、推古13年(605年)に斑鳩宮に移り住んだという。この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺、すなわち法隆寺であった。『日本書紀』には天智9年(670年)に法隆寺が全焼したという記事のあることから、現存する法隆寺の伽藍は火災で一度失われた後に再建されたものではないかという意見(再建論)が明治20年(1887年)頃から出されるようになった。これに対し、『書紀』の記載は信用できず、西院伽藍は推古朝以来焼けていないと主張する学者たちもおり、両者の論争(法隆寺再建・非再建論争)はその後数十年間続いた。その後、再建論に軍配が上がった形である。ただし、いくつかの疑問が残されている。 |
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法隆寺航空写真 法隆寺式伽藍配置であることが分る | 日本の寺院の伽藍配置の変遷 |
中門(国宝)から見える五重塔(国宝) 中門は入母屋造の二重門。日本の寺院の門は正面の柱間が奇数(3間、5間等)になるのが普通だが、この門は正面柱間が4間で、真中に柱が立つ点が特異である。 |
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五重塔(国宝)と金堂(国宝) 金堂は入母屋造の二重仏堂。金堂の壁画は日本の仏教絵画の代表作として国際的に著名なものであったが、1949年、壁画模写作業中の火災により、初層内陣の壁と柱を焼損した。 |
金堂6号壁阿弥陀浄土図(焼失前) |
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五重塔(国宝) 木造五重塔として現存世界最古のもの。初重から五重までの屋根の逓減率(大きさの減少する率)が高いことがこの塔の特色で、五重の屋根の一辺は初重屋根の約半分である。 |
夢殿(国宝) |
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玉虫厨子(国宝) | 観音菩薩立像(救世観音)(国宝) | 木造観音菩薩像(百済観音)(国宝) | 銅造観音菩薩像(夢違観音)(国宝) |
中宮寺 |
中宮寺は、法隆寺に隣接する、聖徳太子ゆかりの尼寺である。7世紀前半の創建と推定されるが、創建の詳しい事情は不明である。江戸時代初期の慶長7年(1602年)、慈覚院宮を初代門跡に迎え、以後門跡尼寺として今日に至っている(門跡寺院とは、代々皇族、貴族などが住持する格式の高い寺のこと)。 |
中宮寺本堂 |
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木造菩薩半跏像(国宝) |
木造菩薩半跏像(部分) |
木造菩薩半跏像(国宝) 中宮寺の本尊。飛鳥時代の作。像高132cm(左脚を除く坐高は87cm)。寺伝では如意輪観音だが、これは平安時代以降の名称で、当初は弥勒菩薩像として造立されたものと思われる。半跏思惟のこの像は、飛鳥時代の彫刻の最高傑作であると同時に、わが国美術史上、欠かすことの出来ない地位を占める作品である。また国際美術史学者間では、この像の顔の優しさを評して、数少い「古典的微笑(アルカイックスマイル)」の典型として高く評価され、エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ作のモナリザと並んで「世界の三つの微笑像」とも呼ばれいる。 半跏の姿勢で左の足を垂れ、右の足を膝の上に置き、右手を曲げて、その指先きをほのかに頬に触れんばかりの優美な造形は、いかにも人間の救いをいかにせんと思惟されるにふさわしい清純な気品をたたえている。 広隆寺の弥勒菩薩半跏像とよく比較される。広隆寺のそれはどこか庶民的で人なつっこく、人を引き寄せる魅力があるのに対して、中宮寺のそれは凛として気高く、ちょっと近寄りがたい雰囲気があるともいわれる。 この辺の事情は、和辻 哲郎著「古寺巡礼」に詳しい。 |
「バーチャル巡検 ---- 奈良・斑鳩の旅」 をご覧下さって、有難うございました。 昨年の「巡検 ----難波と飛鳥の旅 」に引き続き、今年の「奈良・斑鳩の旅」もご案内したかったのですが、健康上の理由でそれが叶わなくなり残念です。 でも、皆さんに少しでも楽しんで頂ければ、幸いです。 |
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