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南米4ヵ国の旅(1)----ペルー(リマ、クスコ、ナスカ、マチュピチュ)


 私にとって南米には、チョットしたこだわりがある。それについては、ホームページの「アンデス・ブランカ山群トレッキング(1)」に書いたので、ここでは省略する。ともかく3年がかりで妻との約束を果たしたのである。

 南米にはアンデスのほかにアマゾンなどの大自然があるし、ナスカ・マチュピチュを含めたインカ文化や植民地の歴史がある。
さらに最近は、ブラジルはBRICsの一翼として発展しているという。あれも見たいこれも見たいと欲を出すと、結局いつも世話になっているユーラシア旅行社の「南米4ヵ国18日間」のツアーに参加することになった。

南米4ヵ国の旅(1)
 
 ペルー(リマ、クスコ、ナスカ、マチュピチュ)

南米4ヵ国の旅(2)
  
ペルー(プーノ、チチカカ湖)、ボリビア(ラパス)、
  アルゼンチン(ブエノス・アイレス)

南米4ヵ国の旅(3)

  アルゼンチン(ブエノス・アイレス、イグアス)
  ブラジル(イグアス、イタイプー、マナウス、リオ・デ・ジャネイロ)


合せてご覧下さい。
        (2007年3月〜4月)
マチュピチュの遺跡
 
 
 
 
 
 
 


A
南米の地図
日本の地図は、地球の中心に対して
対称の位置に表示してある

今回の旅の訪問国は下記の4ヶ国である
 
 ペルー
 
 ボリビア
 
 アルゼンチン
 
 ブラジル
このホームページの3つの頁には、
それぞれ次の国が入っている

南米4ヵ国の旅(1)は、
  ペルー

南米4ヵ国の旅(2)は
  ペルー、ボリビア、アルゼンチン
南米4ヵ国の旅(3)は
  アルゼンチン、ブラジル

国  名 ペルー ボリビア アルゼンチン ブラジル
日本語名 ペルー共和国 ボリビア共和国 アルゼンチン共和国 ブラジル連邦共和国
首  都 リマ 政治・国会(ラパス)
憲法上・最高裁(スクレ)
ブエノス・アイレス ブラジリア
政  体 共和制 共和制 共和制 連邦共和制
独  立 1821-7-28 スペインから独立 1825-8-6 スペインから独立  1816-7-9 スペインから独立 1822-9-7 ポルトガルから独立
面  積 129万km 日本の3.4倍 110万km 日本の2.9倍 277万km 日本の7.3倍 851万km 日本の22.5倍
人  口 2793万人 日本の22%  886万人 日本の6.9%  3954万人 (日本の31%)  1億8611万人 (日本の1.5倍) 
民  族 インディヘナ47%、メスティソ40%、ヨーロッパ系12%東洋系1% インディヘナ55%、メスティソ32%、ヨーロッパ系13% ヨーロッパ系(スペイン人、イタリア人)97% インディヘナ3%、メスティソ3% ヨーロッパ系(ポルトガル人、イタリア人、スペイン人)53%、ムラート22%、メスティーソ12%アフリカ系11%
言  語 スペイン語・ケチュア語(以上、 公用語)、アイマラ語 スペイン語・ケチュア語・アイマラ語(いずれも公用語)、 スペイン語(公用語) ポルトガル語(公用語)
宗  教 カトリック 90% カトリック 95% カトリック 93%、プロテスタント2%、ユダヤ教2% カトリック80%
産  業 農業ではサトウキビ、ジャガイモ、トウモロコシ、コーヒーなど。輸出用の商品作物が多いため、穀類・肉類を輸入している。コカの生産量は世界有数。漁獲高は世界屈指。
地下資源は豊富で、銅、銀、亜鉛、鉄、石油を産し、主要な 輸出品である。工業は一次産品の加工が中心である。
農業はサトウキビやジャガイモを栽培し、羊・牛・アルパカを飼育している。零細で生産性が低く、主要な産物以外は輸入に依存する。
地下資源は豊富で、スズ、鉛、アンチモン、タングステンなどを産出。特にスズは世界有数。
70年ごろから石油と天然ガスの産出量が増加し、輸出も行われる。製造業は食品加工と軽工業程度。
国土の70%が平原で世界有数の農業国。小麦、トウモロコシ、ブドウが栽培され、5000万頭を超える牛と羊が飼育される。穀物、食肉、羊毛は主要な輸出品。
地下資源は最近開発され、石油は国内需要を満たす。工業は就業人口の25%に達し、食品加工、繊維、鉄鋼、化学などがある。
世界有数の農業国で、コーヒー、サトウキビを中心に、大豆、トウモロコシ、綿花などが大量に栽培される。コーヒーの生産量は世界一。牧畜では肉牛。いずれも世界中に輸出される。
地下資源では鉄、アルミ,、マンガン、石炭、金などが豊富。大規模な水力発電所がいくつもあり、電力の8割を水力でまかなう。サトウキビから自動車用アルコール燃料が作られる。南米随一の工業国で、鉄鋼、自動車、機械、兵器も生産される。
1人当り
GNI
2360米ドル (日本の6.3%) 960米ドル (日本の2.6%) 3720米ドル (日本の10%) 3090米ドル (日本の8.3%)
 (民族の欄について)
  
インディヘナは、先住民のこと。 インディオは、侮辱的な響きがあるとされるので、このホームページでは使わない。
 
 メスティソは、ヨーロッパ系とインディヘナの混血のこと。 ムラートは、ヨーロッパ系とアフリカ系の混血のこと。
1日目 成田→ヒューストン(米国)→リマ(ペルー)

成田空港の出発便表示

日本から南米への航空路線は、米国かカナダ経由となる。我々が利用したコンティネンタル航空は米国ヒューストン経由で乗継ぎ時間を含めて、成田からペルーの首都リマまで約21時間を要する。

例によってテロ対策のため、米国乗継ぎ便のスーツケースは施錠できない。空港では靴を脱いで金属探知ゲートを通される。


成田を16:10に出発し、リマのホテル「シェラトン リマ」に到着したのは、出発日の23:40であった。
コンティネンタル航空CO006便



2日目 リマ→イカ→ナスカ→イカ→リマ

深夜のリマに到着したにもかかわらず、翌日は地上絵を見るため早朝からナスカへ向かう。はたして待望の地上絵は見えるだろうか。

ホテルを早朝5:30に出発。ナスカの地上絵を
午前中の遊覧飛行機で見るためである。
ホテルは、ペルーの最高裁判所のまん前、
治安がいいこと間違いなし? 

早朝にリマ空港に着く 遅れに遅れたイカ行きの便がやっと出る



ナスカ博物館

リマからイカへの航空便が遅れ、ナスカ地上絵・遊覧飛行の出発が午後にずれ込んだ。そこで、予定を前後入れ替えて、先ずナスカ博物館へ行く。

ナスカ博物館
 
パラカス文化の土器
(BC2000〜BC200)
ナスカ文化の土器
(BC200〜AD600)

女性のミイラ
 
文字がなかったインカの人たちは、
キープと呼ばれる「紐の結び目」で数字を表した。
キープ(「結縄」けつじょう) インカ帝国の王や役人は人民の統治に必要な情報(総人口や兵士の数、納税品の量)などをキープに記録していた。このキープの作製およびその解読を行うキープカマヨックと呼ばれた専門家(公務員)がいた。結び目の形だけが情報を持っているわけではなく紐の色、結び目の位置など結び目の形以外にも情報が含まれているという。小生が、博物館の展示物と説明パネルを比較したところ、「キープ」は十進法であると推測された。
チャスキ(飛脚)  インカ帝国は、チャスキと呼ばれる飛脚による通信網を確立させていた。文字を持たないインカの人々は、数字などの情報は「キープ」で運んだことであろう。
「チャスキ」は、リレー方式で1日に200km、25日で5000kmを走ったという。この通信網を使って広大な領土を中央集権により統治していた。



ナスカ地上絵

遅れに遅れたナスカ地上絵・遊覧飛行機が出発した。地上絵上空に来ると、セスナ機のパイロットは機体を左右に傾けて、片言の日本語で案内してくれるが、絵を確認できないうちに通り過ぎてしまう。30分余りの飛行時間はあっという間に終ってしまった。妻はデジカメを高精細に設定して、ところ構わずシャッタを切っている。帰宅後パソコンで拡大してみると、いくつかの地上絵を「発見」できた。
時刻が昼過ぎで光線がフラットで地上絵のコントラストが低いため、下記の写真は画像処理でコントラストを補正してある。

アエロ・コンドル社のセスナ208B機に10人ほど乗る 小さな飛行機だが、パイロットとコパイが搭乗

パンアメリカン・ハイウェーが地上絵の中を横切っている。幾何学模様は宇宙船の滑走路を思わせる

パンアメリカン・ハイウェイの整備構想が最初に提唱されたのは、1923年チリのサンティアゴで開催された第5回米州国際会議である。計画・建設から建設費に至るまで米国が大幅な支援を行い、1950年代に整備が進んだ。
ナスカの地上絵を跨ぐように通る幹線道路は、世界遺産には不自然であるが、ポール・コソックが地上絵の存在を発表する以前に建設されていた道路であるという。

ハチドリ トンボ

クモ 渦巻き 宇宙飛行士

ナスカ地上絵は、広大な平原に無数の直線や幾何学模様、そして100以上の図柄に18個の植物や動物の絵が描かれている。その存在は、1550年に歴史記録者であるペドロ・シエサが記述してから、約450年後の1901年にも、ドイツ人考古学者のマックス・ウーレが、その奇妙な地上絵に興味を示していたようでるが、最終的に学術的発見として世界にナスカの地上絵を公表したのは、1939年、ペルー海岸地方の古代灌漑施設を研究していたアメリカ・ロングアイランド大学の考古学者ポール・コソックとなっている。

絵は地表の黒い石や砂を除去して白い地面を出すことによって描かれている。深さ10cm、幅20cmほど。炭素同位元素年代測定法によれば300年から800年頃に描かれたと推測される。

地上絵の意味については、宇宙船の滑走路説は別として、学説的には、天文学の暦説
聖地巡りのインカ道説、雨乞い祈願説などがある。



3日目 リマ滞在

ペルーの首都リマはフジモリ大統領時代の日本大使館人質事件ですっかり有名になったが、歴史的建造物も多く南米観光では欠かせない。

サン・マルティン広場

1821年7月21日のサン・マルティンによるペルーの独立を記念して作られた広場である。

スペインからの独立運動に功績のあったサン・マルティンの騎馬像が建っている。独立戦争といえば、先住民と母国支配者の間の戦争を想像するが、南北アメリカでは、ヨーロッパからの移住者と母国支配者の間の戦争を意味し、先住民は独立の埒外である。 この緑色の建物は、元ドイツ人移民で銀行家のビュッセの邸宅だった。今はイタリア美術館になっているという。
 
 



アルマス広場

正式にはマヨール広場であるが、一般にアルマス広場と呼ばれている。都をクスコからリマに移すと決めたスペイン人征服者フランシスコ・ピサロは、アルマス広場を中心にイベリア様式による町を築いた。

広場の正面にあるカテドラル。1535年1月15日リマ建都の日に、征服者フランシスコ・ピサロが自らの手で礎石を置いたという。

大統領府 市庁舎



黄金博物館

リマの中心地から10kmほどのところにある黄金博物館は、実業家であったガーヨ氏が収集した金の装身具を展示している。征服者ピサロはインカの金をことごとく略奪し、溶かしてスペインに持ち帰った。ここに展示されているものの8割は略奪を免れたプレインカ、インカ時代のものであるという。

禿山の麓に広がる貧民街
 
 
 
  ペルーには不釣合いな立派なアメリカ大使館
カナダでも、オタワの議事堂のすぐ前に威圧するようなデッカイ大使館を作り、カナダ人のひんしゅくを買っている。

黄金博物館 (内部は撮影禁止なので、購入した図録からインカの金製品を紹介した)



海辺のレストラン

海に突き出した瀟洒なレストラン La Rosa Nautica サーファーを眺めながら海鮮料理を頂く

セビッツェ (白身魚、イカ、タコとタマネギを、レモン汁であえて漬け込んだもの、日本人にピッタリ) イカのリングの入ったパエリアのような料理
ペルー沖はフンボルト海流が流れ世界有数の漁場



天野博物館

リマ名誉市民にも選ばれた故天野芳太郎氏が永年にわたり研究し収集した土器・織物を展示する博物館(1964年設立) 今回の旅行で楽しみにしていた1つだが、展示品はいずれも素晴らしく、大満足であった。館内は撮影禁止のため、購入した図録から紹介する。

博物館は完全予約制で、日本人スタッフが案内してくれる 故天野芳太郎氏の写真

彩土器

チャンカイの酒壷 チャンカイの壷 インカの幾何学文様のある酒器

染 織

鳥猿複合文様の綴織 幾何学文様の羅の絞染 人物鳥複合文様の刺繍レース



スーパーマーケット

ミネラルウォータとお土産を買うためスーパーマーケットへ
 
大きい方の魚1匹8.25ソル
(250円)は現地の人にとって
高価だろう
 タコ1匹13.95ソル(420円)も
 高価だ
 

野菜は豊富である
 
ジャガイモは、トウモロコシと共にアンデスでは主食 黒紫のトウモロコシは、アンデスの原種か?



恋人達の公園

恋人が抱き合っている大きなモニュメントのある「恋人達の公園」



閑話休題 南米の古代史

(制作中)



4日目 リマ→クスコ→ユカイ

ペルーの首都リマから、「インカの石組み」で有名なインカ帝国の首都クスコに向かう。途中「タンボ・マチャイ遺跡」、「ケンコー遺跡」、「サクサイワマン遺跡」を見学する。ユカイでは「オリャンタイタンボ遺跡」を見学するなど、遺跡づくめの1日であった。



クスコ空港

一般に飛行機の中は高度約2000m相当に加圧しているが、クスコ空港の標高は3360m。従って、着陸すると急に減圧し高山病になるのではないかと心配していた。ところがどうであろう。腕時計の気圧計で見ていると、空港に近付くと機内の気圧は徐々に下がって行き、着陸の時には高度3360m相当になっているではないか。お蔭で高山病にならずにすんだという次第。

高度約3360mのクスコ空港は紫外線が強い



タンボ・マチャイ遺跡

クスコ近郊にあるタンボ・マチャイ遺跡は、インカ王トウパク・ユパンキが泉の湧き出す地に憩いの場所を作ったといわれている。雨季でも乾季でも湧き出る水は、何処から来ているのか分らないそうである。

バスを降りて遺跡まで石積みに沿って1kmほど歩く 厚い樹皮で寒さに耐えるというアンデスでよく見かける木

遺跡の周りには、いろいろな野草が花を咲かせている

最深部にインカの石組みがあった 不思議な泉

ロバがクサを食む ユーカリとジャガイモ畑



ケンコー遺跡

タンボ・マチャイ遺跡とクスコの間にあるケンコー遺跡は、石組みではなく、2個の巨石からなる宗教儀式の場所である。

パノラマ写真で遺跡の全景を収めた

2個の巨石の隙間は祭壇に通じる 生贄を捧げた祭壇

遺跡からクスコの町が望める(右手前に教会が見える)



サクサイワマン遺跡

ケンコー遺跡のすぐ近くにあるサクサイワマン遺跡は、クスコを守る要塞跡。スペイン人に反逆を企てたインカ軍はここに立てこもったが、夜は戦わないインカ兵はその隙を突かれて全滅した。高さ20mもあった要塞も壊されたという。

  左のマウンドは、将来の発掘のために残してある。   右にスクロールしてご覧下さい →→→

クスコの町はピューマの形をして
いて、この遺跡は頭に当るという。
ここでも見事な石組みが見られる
使用されている石は、玄武岩か粗質な花崗岩か



クスコ市内

3つの遺跡を見終ってクスコ市内に入り、市の中心「アルマス広場」、「インカの町の石組み」、「サント・ドミンゴ教会(コリカンチャ=太陽の神殿)」を見学する。

アルマス広場

スペイン式の町造りは、先ず中心に広場を造る。インカ帝国の町造りも似ている。ここはインカ時代に神聖な広場であったところである。

アルマス広場の正面に建つカテドラルは、インカ時代のビラコチヤ神殿の跡に建てられた。1550年に建築が始まり、100年後に完成した。 広場にはベンチがあり憩いの場所になっている。
 
 


インカ町の石組み

インカの町はいたるところに石組みの壁がある。長方形の石は1つもなく、不規則な形の石を組み合せて、石と石の間には剃刀の刃1枚入らないという精巧さである。こんなことを鉄器を持たない人々がやったとは信じられない。

有名な12角形の石。地震の多いところだから、耐震性の石組みを考えたのだろう。
 
車輪を知らなかったインカの人達の造ったインカ道は狭い。でもこの道も、アンデスを縦横に結んでいるインカ道の1つである。

サント・ドミンゴ教会(コリカンチャ=太陽の神殿)

アルマス広場から南東に500mほどのところにあるサント・ドミンゴ教会は、インカ時代にはコリカンチャと呼ばれた太陽の神殿であった。征服者たちはここで金のトウモロコシ、金のリャマ、金の太陽を見て驚いたという。この神殿にあったすべての金を本国に持ち去った後、土台の石組みの上に教会を建てた。

サント・ドミンゴ教会はクスコの大地震で崩れ落ちたが、土台の石組みはひずみひとつなく残ったという

頑丈過ぎて壊せなかったこのインカの建物をスペイン人は日干し煉瓦で覆い隠した。ここはそのお蔭で、インカの建物を見ることができる。インディヘナ(先住民)で、大阪で2年間建築と遺跡復元の勉強をしたというガイドのカルロスさんの説明に聞き入る。

石樋の部品と、金属(青銅であろう)を流し込んで接続した石の部品 1mもある黄金のレリーフ

スペインの石組みは、
このレンガのように長方形
インカの石組みは、長方形のように見えてもこのように段差をつけている インカの旗が
掲げられていた

クスコからユカイへの行く途中、アンデスの山々を望む峠で、写真ストップ



オリャンタイタンボ遺跡

ユカイのホテルに荷物を預けると、休みもとらずに夕暮れのオリャンタイタンボ遺跡に向う。

ホテルの庭は、タイサンボクの花の香りが漂っていた。。

オリャンタイタンボ遺跡の斜度40度もありそうな
300段の階段を登ると、広場に出る
手前が人間が登る階段、向こうは段々畑
ここは「農事試験所」だったとカルロスさんはいう

階段の上の広場には巨石が並んでいる。この石は数km離れた対岸から運ばれたという。
車輪を持たないインカの人たちはどのようにして運び持ち上げたのであろうか。

斜面の無数にある食料倉庫(もちろん屋根があったはず 隣の山にも食料倉庫が見える

遺跡の麓には、今も同名の村がある ここにもお土産屋さん

今日はリマからクスコへ飛んできて、タンボ・マチャイ遺跡、ケンコー遺跡、サクサイワマン遺跡を、次にリマ市内の史跡を、最後にユカイまで来て、オリャンタイタンボ遺跡を見学した。正に、遺跡づくめの1日だった。



5日目 ユカイ→マチュピチュ

今日はユカイから高原列車でマチュピチュに行き、マチュピチュ遺跡を見学する。今回の南米旅行のハイライトの1つである。

クスコ発の列車にユカイから乗車する(座席指定) 高原列車はウルバンバ川に沿って一旦下る

終点のアグアス・カリエンテス駅に着く 先ずホテルに荷物を置く ミニバスでマチュピチュ遺跡に登る



マチュピチュ遺跡

マチュピチュは、インカの王パチャクティの時代の1440年頃に建設に着手され、1532年にスペイン人により征服されるまでの約80年間、人々が生活したと考えられる。しかしなぜこのような高いところに都市を作ったかは、まだ謎である。

遺跡の入口
 
入口から急登すると復元された
農地管理住居址が現れる 
足下にランの花(マチュピチュ
は植物の宝庫でもあるという)

               空中都市マチュピチュを代表する風景
背後はワイナピチュ山(2400m)。手前右は王族居住地区・貴族技術者居住地区・庶民
居住地区、中央は祭儀広場、手前左は聖職者居住地区・陵墓・各種神殿。左右に走る道
の手前は農業地区。

はるかに続くインカ道 農業地区にあるインカ道を進むと、「太陽の門」を通って聖職者居住地区に入る

石切り場 祭儀広場

地図によると、ここは「王の寝室」と呼ばれるところらしい

神聖な広場にある主神殿 インカ発祥の伝説のある「3つの窓の神殿」

インカ発祥の伝説 3つの穴から8人の兄弟姉妹が湧き出し、
そのうちのひとりがインカの第1代皇帝マンコ・カパックとなり、
クスコでインカ帝国の基礎を築いたという。

インティワタナ(日時計)
遺跡の最高点に建てられた石柱は、
正確に東西南北を指している
コンドルの神殿と牢獄
インカ帝国では、アマスア(盗むな)、アマケヤ(怠けるな)、
アマユヤ(嘘をつくな)の掟を破ったものには重刑が下された

陵墓と呼ばれ、ミイラの安置所だったと
されているが、実はよく分からない
陵墓の上にある太陽の神殿
滑らかな曲線の石組みが美しい

農業地区の段々畑と
復元された見張り小屋(実は穀物倉庫) 
ここの穀物倉庫の草葺きの屋根は復元されていないが、石壁に突起が見られる この突起は屋根
を葺くためのもの

水汲み場
遠くの山から石の地下水路で導かれている。
インカはサイフォンの原理を知っていたらしい。
 
王族の館と石臼
王族の館の中に直径60cmほどの窪んだ円形の石が2つある。
石臼だといわれているが、1万人が住んでいたのだから他から
も見つかっていいはず。水を張って太陽を照らした儀式の場か

なぜ? 「空中都市」、「失われた都市」  マチュピチュは、クスコからウルバンバ川に沿って114km下ったところから400m一気に登った標高2490mの尾根に位置し、山裾からはその存在を確認できない。イェール大学の歴史家ビンガムが1911年にこの地域の古いインカ道を探検していて遺跡を発見した。その後、彼が書いた本「失われたインカの都市」がベストセラーになった。以後、太陽を崇める神官たちが統治したとか、太陽の処女たちが生贄にされたといった定説が形成された。

最近の研究によると、マチュピチュはスペイン人によって追い詰められた最後の砦ではないとの結論になったという。要塞ではなく、インカ人が崇めていた太陽観測施設と推測される。ここを撤退するときに多数の女性ばかりを殺したといわれる人骨も、新しい研究では男女同じ比率であったという。マチュピチュは都市ではなく、インカの王族や貴族のための別荘で、最大でも750人の住民しかいなかったという推定もある。しかし、多くはまだ謎である。

マチュピチュの高度については、諸説があるが、Instituto Nacional de Cultura によると2490mで、小生が最高地点でGPSで測定した値2540mとほぼ一致する



6日目 マチュピチュ→クスコ

この日は午前中は休養日。マチュピチュの町を散歩した後、列車でクスコに向う。クスコではフォルクローレを聴きに行く。

マチュピチュの広場にも教会がある 質素な教会の内部(マリア信仰が窺われる)

手を振るグッバイボーイ 笛を売る少年 まがい物のインカのお土産も楽しい

グッバイボーイ 昨日遺跡から町へ、くねくねのイロハ坂をバスで下るときに、真直ぐの山道を駆け下りて、毎回バスと出会い手を振る少年がいた。 降りきったところでバスに入ってきて拍手で迎えられ沢山のチップを獲得した。 自分で稼ぐのだから立派なものである。

来たときと逆コースだが、帰りは終点のクスコ駅まで乗る トウモロコシ売りのおばさん

車窓からの景色

サボテン 麦のようだが黄色い花が-- トウモロコシ アワかヒエ?  

岩山に下弦の月 列車が徐行してくれたので、クスコの町の夜景が撮れた

アンデスのフォルクローレをお楽しみ下さい

ブロードバンド環境の方は、下の画像をクリックすると、音声付きビデオをご覧になれます
( ホームページに掲載するため圧縮していますので、映像品質が悪いことはご容赦下さい )
日本でも馴染みの「花まつり」 代表曲「コンドルは飛んで行く」 民族舞踊をメドレーでご覧下さい

以上、旅の最初の6日間でした。これからクスコを出発してチチカカ湖へと18日間の旅は続きます。


南米4ヵ国の旅(1)は、いかがでしたか。
南米4ヵ国の旅(2)は、ペルー(プーノ、チチカカ湖)、ボリビア(ラパス)、アルゼンチン(ブエノス・アイレス)
南米4ヵ国の旅(3)
は、
アルゼンチン(ブエノス・アイレス、イグアス)、
                ブラジル(イグアス、イタイプー、マナウス、リオ・デ・ジャネイロ)

引き続き、
下の [次へ] をクリックして、南米4ヵの旅(2)をご覧下さい。


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