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四国遍路3/5 ---- 土佐(高知県)後半と伊予(愛媛県)前半
岩本寺、大岐海岸、金剛福寺、足摺岬めぐり、延光寺、観自在寺、龍光寺、佛木寺、明石寺、
浄瑠璃寺、八坂寺、大宝寺、岩屋寺、別格9番文殊院、札始大師堂、西林寺、浄土寺、圓明寺


  5回に分けて実施する「バス&ウォーク」の四国遍路の3回目に行った。今回は、37番岩本寺から53番圓明寺までの17ヵ寺である。土佐(高知県)の後半と、伊予(愛媛県)の前半に相当する。下に掲げた図のように、高知の道は「修行の道場」、愛媛の道は「菩提の道場」と呼ばれる。したがって、 今回は、 ぼつぼつ修行を終えて悟りを開くべしということだろうが、凡夫の私には、悟りは遥か彼方である。

 今回の遍路では、足摺岬を回る。ここでは霊場巡りを離れて自然観察の時間がある。私の好きな地質学の観察にも期待したい。ここで46億年の地球の歴史を想像するのもあながち仏道に反することでもあるまい。足元の足摺岬付近の四万十帯新生界は僅か5000万年前に生まれた地層である。話は飛ぶが、弥勒菩薩が、お釈迦さまの入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされる。何とこれは地球誕生の歴史46億年にすこぶる近いではないか。そんなことを考えながらコラム「四国の地質 と 日本列島の誕生」をご覧頂ければ幸いである。

 堅い話だけではない。今回の最後の宿泊地は道後温泉である。ここは万葉集にも詠まれている歴史ある温泉だ。街のシンボル的存在である道後温泉本館は「坊ちゃん湯」の愛称で親しまれている。1894年(明治27年)に建築された歴史ある建物(近代和風建築)で、1994年に国の重要文化財に指定された。2009年には経済産業省の「近代化産業遺産」に認定された。歴史ある温泉で巡礼の疲れを癒したい。

 今回も、「クラブツーリズム社」が主催するツアーに妻と一緒に出かけた。    (2015年7月)

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     第37番札所 岩本寺本堂の天井画
四国お遍路といえば、一般には年寄り趣味の保守的なイメージが強い。しかしお寺さんも参詣者の心を掴む努力をしておられて、面白い。岩本寺は天平時代聖武天皇の世に創建された古刹であるが、昭和53年(1983年)の本堂新築の際、全国から公募した575枚の絵で天井を飾った。天井を眺めてしばし微笑む寺である。
 
 
 
四国八十八ヶ所霊場



1日目
(7月7日)
 羽田空港高知空港37番札所・岩本寺大岐海岸
       →
38番札所・金剛福寺足摺岬めぐり
足摺国際ホテル(泊)

羽田空港から高知空港まで飛んで、そこからバスと歩きでお遍路を開始する。今日は2ヶ寺だけであるが、大岐海岸の海辺遍路、足摺岬めぐりも楽しみである。

第37番札所 藤井山 五智院 岩本寺(いわもとじ)

寺伝によると聖武天皇の勅を奉じた行基菩薩が、現地から北西3kmのところに建立した福圓寺が前身とされる。天正時代の兵火や明治の廃仏毀釈の法難に遭い苦難の道が続いたが、少しずつ伽藍を整備し、現在に至っている。

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山門(仁王門)
 
本堂 (本尊は不動明王、聖観世音菩薩、
阿弥陀如来、薬師如来、地蔵菩薩の五仏)

左は大師堂、右は歓喜天(聖天堂)

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1978年に新築された本堂の天井には画家や市民が書いた575枚の天井絵が飾られている。花鳥風月に混じってマリリン・モンローの微笑も。

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先達の松本さんが打つ法楽太鼓に合わせて般若心経を唱える
クリックして動画をご覧ください。画面が暗くて済みません。
若い住職さんは、先達の松本さんとは学友らしい。
協力して四国遍路を盛り上げておられるようだ。

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宿坊で頂く昼食        幸運にも宿坊で、矢負い地蔵にお目にかかれた
矢負い地蔵 その昔、この地に信心深い猟師がいた。獲物が見つからず、これ以上の殺生は無益と思い自分の胸をその矢で射た。妻に起こされ、傍らを見ると矢の刺さったお地蔵様が倒れていた。身代わりとなった地蔵菩薩をこの寺に手厚く祀ったという伝説がある。2014年に修理され開帳された。その年このお地蔵さんを担いで1年かけて四国八十八寺を巡ったという。若い先達の松本さんは、歩き遍路のベテランである。



四万十川と大岐海岸

四万十川は全長196km、流域面積2270km2の一級河川。四国で最長の川で、流域面積も吉野川に次ぎ第2位となっている。本流に大規模なダムが建設されていないことから「日本最後の清流」、また柿田川・長良川とともに「日本三大清流の一つ」と呼ばれる。四万十川の河口から約13km南にある大岐海岸は、約1.6km続く砂浜で、唯一の砂浜のお遍路道である。

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四万十大橋をバスで渡る 四万十川の中州と小舟

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足摺岬へ向かって歩く 足摺宇和海国立公園大岐海岸の標識のところで、海岸に出る

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大岐海岸は、歩き遍路道で、唯一の海岸線を歩くコース ウミガメ産卵場所

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浜木綿(ハマユウ)

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大岐海岸の南端で、西の方から流れ込む川に出くわした。上流の橋まで距離があるので、ここで渡渉することになる。
対岸には、グシャグシャになった堆積岩の地層(メランジュ)が見られる。ここで、四国の地質と日本列島の誕生を思い出す。

 
突然ですが・・・                                
「四国の地質 と 日本列島の誕生」のお話です
                           四国の地質

四国の地質図を下に示す。四国の地層は比較的単純である。四国北部に中央構造線(断層)が東西に走っている。中央構造線の北側は内帯、南側は外帯と呼ばれる。外帯は北から順に三波川帯、秩父帯、四万十帯北帯、四万十帯南帯という4つの帯状構造をしている。帯の間は北から順に、御荷鉾構造線、仏像構造線、安芸・中筋構造線という3つの構造線(断層)で区切られている。外帯では北(二畳紀)から南(新第三紀)へ向かって次第に新しい地層が配列し、各地層群は著しい断層で区切られている。この断層は北に傾き、南側の新しい地層群が北側の古い地屑群の下に潜り込んだ逆断層の関係でいわゆる覆瓦状構造をつくっている。これは土佐湾沖の南海トラフを境に南側のフィリピン海プレートが四国の下にもぐり込むことによって海溝や遠洋深海底に堆積した堆積物が押しつけられてできた付加体と考え られている。このような考え方をプレートテクトニクスという。
四国地質調査業協会HPに追記改変した
四国巡礼中の我々は、いま大岐海岸にいる。(上の地質図参照) この付近は四万十帯新生界と呼ばれ、5200万年前から2200万年前に海溝に堆積した地層である。足摺岬の南端にある新第三紀花崗岩類というのは、1500万年前~700万年前にマグマが地下の深いところで冷えて固まった花崗岩である。今日の「足摺岬めぐり」でお目にかかれるだろう。
 日本列島の誕生
 
四国の中央構造線については、下記の小生のホームページをご覧ください。
中央構造線の旅(4)-徳島県・愛媛県・高知県----山の自然学シリーズ(12)


新しい地球の科学~日本列島の誕生~(第39回教育映画祭 最優秀作品賞受賞)は、右の画像をクリックしてご覧ください。
動画は3つに分かれており、次々に上映されます。
1/3は9分、2/3は9分、3/3は10分の作品です。



第38番札所 蹉山 補陀落院 金剛福寺(こんごうふくじ)

寺伝によれば、弘仁13年(822年)に、嵯峨天皇から「補陀洛東門」の勅額を受けた空海(弘法大師)が、三面千手観世音菩薩を刻んで堂宇を建てて安置し開創したという。空海が唐から帰国の前に有縁の地を求めて東に向かって投げたといわれる五鈷杵(ごこしょ)は足摺岬に飛来したといわれている。戦国時代以降、海の彼方にある常世の国・補陀落浄土を信仰して、1人で小舟を漕ぎ出す「補陀落渡海」が盛んだったことで寺運は隆盛した。山号の文字「蹉」も「跎」もともに「つまづく」の意味で、この地が難所であったことを示している。

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山門(仁王門) 嵯峨天皇宸筆の「補陀落東門」と彫られた木の扁額
因みに、嵯峨天皇は弘法大師、橘逸勢とともに平安初期の能筆家「三筆」の1人
本堂(本尊は三面千手観世音菩薩)
 

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大師堂 庭園から眺める、左から本道、大師堂、多宝塔、客殿



足摺岬めぐり

バス&ウォークの四国遍路では、寄り道せずにまじめに「寺めぐり」をするように企画されているようだ。ところが今日は「寺めぐり」でない「足摺岬めぐり」が実現した。

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                                 中浜万次郎の顕彰碑と銅像
中浜万次郎は、足摺岬に近い中ノ浜の貧しい漁夫の二男にうまれた。14歳のとき出漁中に遭難、伊豆諸島の無人島鳥島に漂着し143日間生活した。そこでアメリカの捕鯨船に仲間と共に救助された。船長のホイットフィールドに頭の良さを気に入られた中浜万次郎は本人の希望からそのまま一緒に航海に出た。この時、船名にちなみジョン・マン(John Mung)の愛称をアメリカ人からつけられた。アメリカ本土に渡った中浜万次郎は、ホイットフィールド船長の養子となって一緒に暮らし、1844年(弘化元年)にはバーレット・アカデミーで英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学んだ。帰国後、幕府の軍艦操練所教授となり、慶応2年(1866年)、土佐藩の開成館設立にあたり、教授となって英語、航海術、測量術などを教えるなど、活躍した。


幕末から明治・昭和に活躍した土佐の偉人の銅像の案内図

足摺岬の突端、灯台の下は不思議なことに花崗岩でできている。なぜだろうか。

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弘法大師因縁の「足摺の七不思議」から3つ。いずれも高知県では珍しい花崗岩である。
           潮の満干の手水鉢
岩の窪みに溜まった水が、潮が満ちると増え、干潮になると減るという。
 
           亀石
この亀に似た石は、専門家によると、全国的にも一級品だそうだ。
 
            ゆるぎ石
弘法大師が金剛福寺を建立した際に発見した石。この岩のゆるぎにより心の善悪を試すといわれる。

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足摺国際ホテルに着く 夕食



2日目
(7月8日)
 ホテル朝の散歩39番札所・延光寺40番札所・観自在寺41番札所・龍光寺
     
42番札所・佛木寺
43番札所・明石寺46番札所・浄瑠璃寺
遍路宿(泊)

朝の散歩

ホテルのサービス実施された「早朝の散歩」に参加した。

白山洞門からアロウド海岸を散歩した

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白山洞門 アロウド海岸



第39番札所 赤亀山 寺山院 延光寺(えんこうじ)

土佐路の西南端、高知県「修行の道場」最後の霊場である。寺伝によれば聖武天皇の勅命によって行基が薬師如来を刻んで本尊とし、亀鶴山施薬院宝光寺と称したという。その後桓武天皇の勅願所となり、弘法大師が再興、本堂脇に眼病に霊験のある「目洗い井戸」を掘ったといわれる。

38番金剛福寺から39番延光寺(現在地)への正規の歩き遍路道(━━)は72kmの海岸沿いの道である。
我々は海岸沿いの道は大型バスが通れないので一部高速道路を使用してショートカット(━━)した。
上の地図は、39番延光寺に掲示されていた「四国のみち」に、実際に通った道を加筆したもの

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山門(仁王門) 本堂(本尊は薬師如来)

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大師堂 眼洗い井戸は、大師が「宝医水」と名付け、眼病に効くという



第40番札所 平城山 薬師院 観自在寺(かんじざいじ)

観自在寺は愛媛県「菩提の道場」の最初の霊場で、一番霊山寺からもっとも遠くにあり、「四国霊場の裏関所」とも呼ばれる。弘法大師が平城天皇(在位806〜09)の勅命を受けてこの地を訪れ、本尊の薬師如来と脇侍の阿弥陀如来、十一面観音菩薩の三尊像を彫造して安置し、開創したとされている。

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総ケヤキ造りの山門(仁王門) 山門の扁額(平城天皇の勅命による)

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本堂(本尊は薬師如来) 大師堂



第41番札所 稲荷山 護国院 龍光寺(りゅうこうじ)

古くから神仏習合の寺として、地元では「三間のお稲荷さん」と呼ばれ親しまれた。明治の神仏分離で旧本堂は稲荷社とされ、現在の本堂は新たに建立されたものである。

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豊後水道に面する宇和島の内海で、真珠養殖が盛んである お寺に参詣するのに鳥居をくぐる。そのわけは・・・

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民家の間の石段を登る。目指すは稲荷社の鳥居。
鳥居の左にある本堂はここからは見えない
本堂(本尊は十一面観世音菩薩)
 

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大師堂 稲荷社



第42番札所 一カ山 毘盧舎那院 佛木寺(ぶつもくじ)

弘法大師がこの地で牛を牽く老人に勧められて牛の背に乗って進むと、唐を離れる際に有縁の地を求めて東に向かって投げた宝珠(仏堂の頂上に置かれることが多い)が楠の大樹にかかっているのを見つけた。そこで、この地が霊地であると悟り楠木で大日如来を刻んで、その眉間に宝珠を埋め、堂宇を建立して開創したという。牛の背に乗ってこの地に至ったというところから家畜守護の寺とされている。

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41番龍光寺の裏山から振り返る 裏山を越えて、農道を3kmほど歩く

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やっと佛木寺の山門(仁王門)に着く 四国霊場では珍しい茅葺の鐘楼堂(元禄年間の再建)

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本堂(本尊は大日如来) 大師堂



第43番札所 源光山 円手院 明石寺(めいせきじ)

寺伝によれば6世紀、欽明天皇の勅願により創建したというが、飛鳥寺や四天王寺以前の創建ということになるのでこれは史実とは考えられない。天平6年(734年)に寿元行者が熊野より十二社権現を勧請し修験道の中心道場としたとされる。弘仁13年(822年)弘法大師が再興したという。。建久5年(1194年)に、源頼朝が池禅尼(平忠盛の正室)の菩提を弔うため阿弥陀如来を安置し、この時に山号を現光山から源光山に改めたという。(頼朝は平氏の恩を忘れなかった!)

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山門(仁王門) 本堂(本尊は千手観世音菩薩) 大師堂は工事中



第46番札所 源光山 円手院 浄瑠璃寺(じょうるりじ)

寺伝によれば、和銅元年(708年)に大仏開眼を前にした布教に訪れた行基が堂宇を建立、本尊の薬師如来と脇侍の日光・月光菩薩、十二神将を刻んで安置して開基したという。その後、大同2年(807年)に弘法大師が本寺を再興したと伝える。

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本堂(本尊は薬師如来)
 
大師堂
火を使う時限の5時を過ぎていたが、灯明・線香を上げさせて頂く



遍路宿・長珍屋

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その名も珍しい「へんろ宿 長珍屋」 宿の夕食

食後のミーティングで、明日の「大宝寺から岩屋寺への山越え」の説明



3日目
(7月9日)
 ホテル47番札所・八坂寺44番札所・大寶寺山越え
              
45番札所・岩屋寺道後温泉・ホテル
(泊)

第47番札所 熊野山 妙見院 八坂寺(やさかじ)

寺伝によれば役行者によって開基され、大宝元年(701年)に、伊予の国司越智玉興が、文武天皇の勅願を受けて堂宇を建立したという。一時荒廃するが、弘仁6年(815年)に来錫した弘法大師が再興したとされる。

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へんろ宿長珍屋から1kmほど農道を歩く
 
山門
屋根付き橋のようになった単層小型の門

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本堂(本尊は阿弥陀如来) 大師堂

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ここで珍しいものを拝見した。2015年に四国八十八ヶ所開創1200年記念行事として、
青年僧侶・先達が背負い八十八ヶ所(1200キロ)の徒歩錬行(歩き遍路)をしたときの弘法大師像である。

第44番札所 菅生山 大覚院 大寶寺(だいほうじ)

寺伝によれば百済から来た聖僧が携えて来た十一面観世音菩薩を山中に安置したのが始まりである。大宝元年に猟師がその観音像を見つけて草庵を建てて祀ったといい、奏上を受けた文武天皇の勅命によって寺院が建立され、元号に合わせて寺号を定めたといわれている。弘仁13年(822年)に弘法大師が来錫、この際に天台宗から真言宗に改宗されたという。

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山門(仁王門、 入母屋造楼門) 石段を登って本堂へ

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本堂(本尊は十一面観世音菩薩) 大師堂(納経を終え、引き上げるところ)



山越えで大寶寺から岩屋寺へ

GPS地図 大寶寺から岩屋寺への8.4kmの険しい山道、途中の「村の茶屋」で昼食

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岩屋寺への山道のスタート 途中で昼食を摂った「村の茶屋」

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この道標では、大宝寺から岩屋寺まで合計8.9km 険しい下り阪、正に「遍路ころがし」である

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弘法大師が修行したという「逼割(せりわり)禅定」の入口。肩幅より狭い隙間を鎖やはしごで登るという。
禅定とは、仏教で心身ともに動揺することがなくなった状態を指す。禅定を得るための方法として座禅や行場修行があると考えていいだろう。



第45番札所 海岸山 岩屋寺(いわやじ)

寺伝によれば、弘仁6年(815年)霊地を探して山に入った弘法大師は、山中で神通力を備えた法華仙人という女性と出会う。仙人は空海に帰依して山を献上した。空海は不動明王の木像と石像を刻み、木像は堂宇を建立して本尊として安置、石像は奥の院の岩窟に祀って秘仏とし、岩山全体を本尊としたという。

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行場から下ると二王門(楼門)に着く 大師堂(国の重文) 本堂(本尊は阿弥陀如来)と岩壁
岩壁の地層は、久万層群二名層(穴は結晶片岩の巨礫が抜けた跡)。今から約4,500万年前、この一帯は西から入り江が形成されて浅く温かい海になっていた。周辺の山からは、侵食された礫が入り江に流れ込んで、久万層群二名層の礫岩層を形成した。国指定の名勝にもなっている古岩屋の奇岩はこの二名層からなっている。この一帯は新生代第四紀(約200万年前)以降急激に隆起した。

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大師は「山高き谷の朝霧海に似て、松吹く風を波にたとえむ」と詠い、山号を海岸山岩屋寺と名付けた。院名はない。 山門の左横に弘法大師の歌碑あり
 
山門に懸る扁額
 

岩屋寺で最初に発見された植物(イヨクジャク、イワヤシダ、イワヤスゲ)があるというので探したが見つからなかった。

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リョウメンシダ イヨタキシダ キギノオシダ ゼンマイ


 
寺の名前 (山号、院号、寺号)
                       寺の名前の三点セット

四国霊場八十八ヵ寺に限らず、寺の名前は山号、院号、寺号の三点セットで呼ばれる場合が多い。
四国霊場以外で全国的に有名なものを挙げてみよう。

 成田山 金剛王院 神護新勝寺(千葉県) 一般には「成田山」と呼ばれる
 華頂山 知恩教院 大谷寺(京都府)    一般には「知恩院」と呼ばれる
 三縁山 広度院 増上寺(東京都)      一般には「増上寺」と呼ばれる

必ずしも、山号、院号、寺号の3つが揃っているとは限らない。
四国霊場八十八ヵ寺の中で、揃っていない寺が2つある。

 海岸山 岩屋寺(愛媛県)          45番札所、院号がない
 琴弾山 神恵院(香川県)          68番札所、寺号がない

それでは、山号、院号、寺号は、何を意味するのであろうか。
 
                               山号について

寺院は元来修行・祈願の道場であったため、山中の勝地を選んで建立された。「○○山」は山号と呼ばれるが、中国で、寺の所在を示すためにその寺の所在する山名を冠して呼ばれたのに始まる。わが国では、飛鳥・奈良時代には、寺は主に平地に造られたので山号はなかった。平安時代に、山上に造られた寺は「比叡山寺」「高野山寺」など山の名を用いた寺名で、これらの寺はのちに寺号が定まっても、その所在を明瞭にするために山号を寺名に冠して使用した。

中国で禅宗の代表的寺院に「五山十刹(ゴザンジッセツ)」の制が定められ、鎌倉時代、禅宗とともにこの制がわが国に伝えられると、巨福山(コブクサン)建長寺などのように寺名の上に山号が付けられるようになり、山は鎌倉五山・京都五山などが選ばれた。その後、ほかの宗の寺院も、寺名の上に山号をつけるようになった。 
                                                        岩波仏教辞典より
                               院号について

「院」は垣をめぐらした建物の意。院号は上皇の称号、天皇の追号、女院の称号でもあるが、仏教関係の施設を「院」と称することが中国・日本で行われ(東大寺戒壇院など)、寺で院号を称するものができた(知恩院など)。「○○院」とは通常、寺の名前そのもの(寺名)の場合や、寺内にある施設名になる場合がある。

『浄土真宗法名・院号大鑑』では、以下のような別の解釈もしている。仏さまをおまつりしてあるところを「寺」というのに対し、僧侶などの人師の住むところを「院」と呼ぶ。
                                                        岩波仏教辞典より
                               寺号について

寺号は、その寺の名前である。建立者や開祖が名前を付けることが多いようである。その寺を作る時の気持ちが込められている。
                     最後に、「山号寺号」という落語を一席!

ある商家の若旦那が、なじみの幇間(別名{「太鼓持ち、「男芸者」)・一八と出会う。一八が「どこへ行くんですか」とたずねると、若旦那は「浅草の観音様だ」と答える。「ああ、金龍山浅草寺ですか」「俺が行くのは浅草だよ」「ですから、あそこは本当は金龍山浅草寺というんです。お寺には『なになに山なになに寺』という正しい呼び名があり、この山号と寺号を合わせた『山号寺号』というのが、どこにでもあります」

それを聞いた若旦那は「どんなところにも山号寺号があるんだな」と念を押して、「この場にもあるか。もしあったら金をたんとやる」と一八に迫る。

一八は頓智をきかせ、「あそこでおばさんが縁側を拭いてますね。『おかみさん拭きそう』」、「乳母(おんば)さんが子供を抱いている。『乳母さん子を大』」などと、次々に「山号寺号」を披露する(以下は一例。演者により異なる)。
 看護婦さん 赤十
 車屋さん 広小
 自動車屋さん ガレー
 時計屋さん 今何
 肉屋さん ソーセー
 お医者さん イボ
 清子さん 水前

一八に所持金をほとんど巻き上げられてしまった若旦那は、「今度は私がやろう」と言うなり、金で満杯になった一八の財布を取り上げてふところに入れ、「一目散随徳寺(いちもくさん ずいとくじ)」と言って逃げる。(「随徳寺」とは、「跡をずいとくらます」ことを意味する古い駄洒落)。逃げられた一八は、「南無、し損じ」

お後がよろしいようで・・・
                                                        Wikipediaほかより
ここをクリックすると、立川談志の「山号寺号」をお聴き頂けます。




道後温泉・宝荘ホテル

道後温泉は愛媛県松山市(旧伊予国)に湧出する温泉である。日本三古湯の1つといわれる。その存在は古代から知られる。古名を「にきたつ」(煮える湯の津の意)といい、万葉集巻一に見える。道後温泉の中心にある道後温泉本館は、1894年(明治27年)に建築された歴史ある建物(近代和風建築)で、街のシンボル的存在であり、1994年に国の重要文化財に指定された。2009年には経済産業省の「近代化産業遺産」に認定された。

万葉集巻一に、斉明天皇に随行した額田王の「熟田津に船乗りせんと月待ては 潮もかないぬ今は漕ぎいでな」という秀歌がある。その返歌として、山部赤人の「百敷の大宮人の飽田津に、船乗りしけむ年の知らなく」(巻三)がある。


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道後温泉本館(愛称は坊っちゃん湯)は、国指定の重要文化財

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ホテルの窓から松山城が見えた ホテルでの夕食



4日目
(7月10日)
 ホテル別格9番札所・文殊院札始大師堂48番札所・西林寺49番札所・浄土寺
  →50番札所・繁多寺
51番札所・石手寺52番札所・太山寺53番札所・圓明寺松山空港羽田空港

別格9番札所 文殊院(もんじゅいん)

四国遍路の元祖と言われる衛門三郎の邸宅があったと伝えられる地に建つ。伝承によれば、徳盛寺と呼ばれていたが、平安時代初期の天長元年(824年)に弘法大師が文殊菩薩に導かれてこの地に逗留し文殊院と改めたと言われている。第四十七番札所八坂寺、文殊院、札始大師堂、第四十八番札所西林寺の順に並ぶ。


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稲田の脇道を歩く
 
左本堂、右大師堂
 
河野衛門三郎
菩提所の木碑



八ッ塚群集古墳

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別格9番札所文殊院と札始大師堂の間に、八ッ塚群衆古墳がある
四国遍路の元祖といわれる衛門三郎の8人の子供を祀ったという伝説がある
北端から南方を振り返る
左から、6号墳、7号墳、8号墳

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8号墳
左7号墳、右8号墳
GoogleEarthで見た八ッ塚群衆古墳 (数字は古墳番号) 1号墳



札始大師堂(ふだはじめだいしどう)と杖ノ淵公園

札始大師堂は大蓮寺の境外仏堂で、四国八十八箇所番外札所となっている。伝承によれば、弘法大師の後を追って旅に出た衛門三郎が、荏原郷を出て小村の中州にやって来ると、松の大木の下の堂を見つけ、そこに弘法大師の像があるのを見つけた。衛門三郎は大師像に何度も詫び、ここで一夜を明かした。翌朝、出立の際に木を削いで札を作り、自分の名を記して堂に納めたという伝承がある。これが納札の始まりと言われており、この堂は札始大師堂と呼ばれるようになったという。衛門三郎については四国遍路1/5をご覧ください。

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大師堂の隣にある「大師さまお泊跡の碑」 札始大師堂

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重信川は、愛媛県中部を流れる一級河川重信川水系の本川で、
広大な扇状地(道後平野)を形成している。
 
四国巡錫中の空海がこの地を通りがかった際に、住民が干魃に
苦しんでいた。これを見た空海がここに杖を突き立てると清水が
湧き出たという。杖ノ渕の清水は名水百選のひとつとなっている。



第48番札所 清滝山 安養院 西林寺(さいりんじ)

寺伝によれば、聖武天皇の勅願を受け、天平13年(741年)に行基が堂宇を建立、本尊の十一面観世音菩薩を刻んで開基したという。大同2年(807年)に弘法大師が本寺に逗留し奥の院になっている「杖の渕の清水」を湧出させたといわれる。


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山門(仁王門、 入母屋造楼門) 左 本堂(本尊十一面観世音菩薩)、右 大師堂



第49番札所 西林山 三蔵院 浄土寺(じょうどじ)

天平勝宝年間(749年-757年)に孝謙天皇の勅願を受けて恵明上人が開創、本尊として行基が刻んだ釈迦如来像を祀ったという。当初は法相宗であったが、弘法大師が伽藍を再興した際に真言宗に改宗した。


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口を結んだ吽形(うんぎょう)像
 
山門(仁王門)
仁王は愛称で、正式名は金剛力士、仏教の守護神である天部の1つ。
開口の阿形(あぎょう)像
 

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本堂(釈迦如来) 大師堂

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木造空也上人立像(木造、彩色、玉眼、鎌倉時代作、昭和11年国指定重要文化財)
現物ではなくパネル展示であるが、きれいな写真が撮れた。京都の六波羅蜜寺の木造空也上人立像
(鎌倉時代、運慶の四男・康勝の作、重要文化財)が有名であるが、劣らず素晴らしいものである。



第50番札所 東山 瑠璃光院 繁多寺(はんたじ)

寺伝によれば天平勝宝年間、孝謙天皇の勅願により行基が開基し、孝謙天皇の勅願所となったという。その際行基が坐高三尺の如来像を彫り、本尊として、光明寺と号したが、弘仁年間に弘法大師が留まって修行し東山繁多寺に改称したという。

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山門 本堂(本尊は薬師如来) 大師堂

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歓喜天堂には、
4代将軍家綱の念持仏三体の一つである歓喜天が祀られている
歓喜天堂祭壇
 
歓喜天は、仏教の守護神である天部の1つ。厄除けや商売繁盛、合格祈願などの参拝者が多い。
ヒンドゥー教から仏教に取り入れられた神の1つ。



第51番札所 熊野山 虚空蔵院 石手寺(いしでじ)

寺伝によれば、神亀5年(728年)に伊予国の太守、越智玉純が夢によってこの地を霊地と悟り熊野十二社権現を祀った。これは聖武天皇の勅願所となり、天平元年(729年)に行基が薬師如来を刻んで本尊として安置して開基したという。弘仁4年(813年)に弘法大師が訪れ、真言宗に改めたとされる。寛平4年(892年)河野氏に生まれた子どもが石を握っていたという衛門三郎再来の伝説によって石手寺と改められた。衛門三郎再来伝説については四国遍路1/5をご覧ください。

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山門(国宝、仁王門) 本堂(重要文化財、本尊は薬師如来)

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大師堂 鐘楼(重要文化財)

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三重塔(重要文化財) 衛門三郎の再来伝説ゆかりの寺である 筆を持つ弘法大師像(高さ16m)



第52番札所 龍雲山 護持院 太山寺(たいさんじ)

太山寺の草創については、飛鳥時代の「一夜建立の御堂」伝説が伝えられている。その後、天平11年(739年)聖武天皇の勅願により行基によって本尊の十一面観音が安置され、孝謙天皇(聖武天皇の娘)が天平勝宝元年(749年)に十一面観音を勅納し七堂伽藍を現在の地に整えたと伝えられている。


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二の門(仁王門、重要文化財、 入母屋造八脚門、1305年再建) 三の門(四天王門、 入母屋造楼門、1683年再建)

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本堂は国宝 (本尊は重要文化財 十一面観世音菩薩) 大師堂 鐘楼堂(1655年再建)

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本堂は国宝、木造十一面観音立像7躯は重要文化財 説明パネルの7躯の内の3躯の拡大写真



第53番札所 須賀山 正智院 圓明寺(えんみょうじ)

寺伝によれば天平勝宝元年(749年)聖武天皇の勅願を受けて行基が本尊阿弥陀如来、脇侍に観世音菩薩、勢至菩薩を刻んで開基したという。当初は現在地より北の浜にあり海岸山圓明密寺と称した。後に弘法大師がこの地を巡錫し伽藍を整備したという。
大正13年3月、シカゴ大学のスタール博士が四国遍路をしている途次、寺の本尊・阿弥陀如来像を安置している厨子に打ち付けてあった四国霊場最古の銅板納札が発見され保存されている。江戸時代の初期にあたる慶安3年(1650)の銘がある。

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山門(仁王門) 中門(楼門)

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本堂(本尊は阿弥陀如来) 大師堂

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マリア観音像(キリシタン灯籠、または
キリシタン石塔、と呼ばれている)
本堂の天井近くにいる左甚五郎作と云われる龍の彫物
(左)本堂の外からでは吊物の陰でよく見えない (右)Webを探すと堂内で撮影した写真があった



松山空港から帰宅の途に就く

圓明寺を最後に今回の四国遍路(3/5)を終了し、松山空港から羽田空港への帰途に就いた



奉納経帳より

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奉納経帳(朱印帳) 第38番札所 蹉跎山 補陀落院 金剛福寺 第45番札所 海岸山 岩屋寺

四国遍路3/5 をご覧下さって、有難うございます。

5回に分けて実施する「バス&ウォーク」の四国遍路の3回目でした。毎回掲げるコラムもネタ切れと
なりましたが、コラム「四国の地質 と 日本列島の誕生」に興味を持っていただければ幸いです。
下の項目をクリックすると、コラムの頁にリンクします。

 1.四国の地質 と 日本列島の誕生
 2.寺の名前 (山号、院号、寺号)


過去の
四国遍路1/5四国遍路2/5 は、それぞれの文字をクリックするとご覧になれます。

最後に、今回の旅でお世話になった先達の松本さん、添乗員の下崎さんにお礼申し上げます。

なお、各寺の説明は、四国八十八ヶ所霊場会公式ホームページ等を参考にしました。



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