葛城と河内の古墳群----百舌鳥古墳群、古市古墳群、ナガレ山古墳、巣山古墳、牧野古墳、 広陵町文化財保存センター、宮山古墳、仲姫皇后陵、応神天皇陵、仲哀天皇陵、 白鳥陵、松岳山古墳、柏原市歴史資料館、高井田横穴公園、反正天皇陵、仁徳天皇陵、 履中天皇陵、大仙公園、イタスケ古墳、近つ飛鳥博物館、推古天皇陵、聖徳太子廟 |
2つの物事の狭間(まざま)は興味深い。 最近NHKでは、「地球と宇宙の狭間」を「宇宙の渚」と称して科学番組として放映したが、結構面白かった。私は「考古(遺物・遺構の歴史学)と歴史(文献史料の歴史学)の狭間」に興味がある。 関西生まれの私は、「南大阪には仁徳天皇陵というとてつもなく大きい御陵がある」ということは幼い時から聞いていたが、なかなか訪ねる機会がなかった。最近古事記や日本書紀を読むにつけ、「考古と歴史の狭間」に存在する古墳とりわけ天皇陵を訪ねたいという欲求が高まってきた。日本の国が、身分制度の緩やかな弥生時代から、首長や大王が支配する古墳時代にどのようにして移って行ったかは、天皇陵と呼ばれている古墳群を見聞することから始めなければならないと思い始めた。 最近、百舌鳥・古市古墳群は、世界文化遺産への登録を目指す運動が進められているので、この関係の情報も得やすくなった。幸運にも、関西学院大学文学部非常勤講師で藤井寺市教育委員会文化財保護課学芸員の天野末喜先生がご案内下さる見学会を、「トンボの眼」の佐々木章氏が企画・実施して下さるというので、参加させて頂くことにした。 なお、天皇陵の表記は、考古学上から言えば古墳名にすべきであるが、 ここでは原則として、〇〇天皇陵(古墳名)を用いた。例えば 仁徳天皇陵(大仙古墳) と記したが、必要に応じて、仁徳陵、百舌鳥耳原中陵の表記も用いた。 (2012年4月) |
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仁徳天皇陵(大仙古墳)は全長486m、世界最大の前方後円墳である 写真は文化庁資料により |
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葛城と河内の古墳群 訪問地全図 |
━━ GPSによる軌跡 青字は訪問地 |
古墳時代の大阪平野の地図 |
http://homepage2.nifty.com/yokubari-sennin/kudarajin.html を改変 |
1日目 (4月27日) |
新大阪駅→馬見丘陵公園→牧野古墳→広陵町文化財保存センター →宮山古墳→屋敷山古墳→ホテル サンルート堺(泊) |
新大阪駅集合 |
2012年4月27日11:30、参加者14名はJR新大阪駅の千成瓢箪前に集合し、解説して下さる天野末喜先生と引率の佐々木章さんの説明を受ける。 |
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晴天に恵まれ駅舎が眩しい | 新大阪駅の千成瓢箪前に集合 |
奈良県馬見丘陵公園 |
馬見古墳群を整備して公園としたもので、古墳に関する説明展示のある公園館と巣山古墳、ナガレ山古墳などの大小古墳とからなる。 |
公園の入口の大きな説明板 |
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公園館の外観 | 公園館のパネルを説明する天野先生 |
乙女山古墳 |
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乙女山古墳(左:後円部、右:前方部) 帆立貝形で全長130m |
現地の説明板 |
一本松古墳 と 倉塚古墳 |
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一本松古墳、前方後円墳、全長130m | 倉塚古墳、前方後円墳、全長180m |
ナガレ山古墳 |
ナガレ山古墳は、5世紀前半に築造された前方後円墳で、全長105m。葺石の復元には二上山山麓の安山岩や花崗岩が、復元した埴輪列には494本のFRP製と181本の町民が焼いた粘土製が用いられている。 |
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前方部に登る | 前方部から後円部を眺める | 航空写真(河合町教育委員会資料より) |
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古墳の中心線から片方は葺石と埴輪で築造当時の姿を再現し、 もう片方は芝生で1600年後の現在の姿で復元されている。 |
前方部の最端部に、墓壙と粘土槨の位置を示す |
前方部と後円部の接続部(くびれ部)から「造出し」を眺める。ここは祭祀が行われる場所であろうか。 |
巣山古墳 |
馬見古墳群最大の前方後円墳で全長220m、4世紀後半に築造された葛城の王墓と考えられる。喪船と思われる準構造船、形象埴輪(蓋形、家形、盾形、水鳥形、囲形、柵形)などが見つかった。これらの出土品は広陵町文化財保存センターで見ることができた。 |
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造出しと出島状遺構が見られる。出島状遺構は南北16m、東西12mで、ここでは造出しで行われる祭祀とは異なり、首長が司る水に関わる祭祀が行われたのではないかと考えられる。 | 墳丘測量図に加筆 |
牧野(ばくや)古墳 |
6世紀末に築造された直径約50mの円墳。横穴式石室は全長17mで結構大きい。石室には副葬品が多く残されていて、敏達天皇の皇子で舒明天皇の父である押坂彦人大兄皇子の墓とする説が有力である。 |
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入り口は狭いが、石室は立派 | 石棺の前に何故か最近の卒塔婆が |
広陵町文化財保存センター |
広陵町文化財保存センターは奈良県広陵町から出土した遺物を保存展示している。1つの町の施設だが、見ごたえがある。 |
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センターの建物は簡単だが、展示品は素晴らしい | 巣山古墳の周濠の北東隅から出土した喪船を説明して頂く |
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船は準構造船で、古事記の仲哀記にある喪船(棺を載せる船)と考えられる | 喪船復元想定図(広陵町教育委員会資料より) |
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蓋形埴輪 | 二階建式切妻家形埴輪 | 柵形埴輪 |
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囲形埴輪 | 円筒形埴輪 |
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猪形埴輪 | 水鳥形埴輪 |
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牧野古墳から出土した馬具「障泥縁金具」と「障泥吊り金具」 |
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牧野古墳から出土した馬具「壺鐙」 |
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鉄地金銅張りの馬具のいろいろ | 須恵器のいろいろ |
宮山古墳(室大墓古墳) |
全長238mの前方後円墳で、当時の天皇陵墓にも比肩する全国で第18位の大きさを誇り、葛城襲津彦(そつひこ)の墓の有力な候補といわれている。襲津彦は仁徳天皇の皇后となった磐之媛の父にあたる。その他の被葬者候補としては孝安天皇、孝昭天皇、また武内宿禰ではないかとも言われているという。 |
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宮山古墳には八幡神社を通って入る | 復元された靭(ゆぎ)形埴輪は高さ1.5mもある |
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竪穴式石室(南石室)の中に長持形石棺を見ることができる。 天井石と石棺には兵庫県加古川市付近に広く分布する流紋岩質溶結凝灰岩が使用され、 壁石には紀の川の岩石である結晶片岩が使われているという。 |
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北石室の天井石 | 石室と埴輪の配置 |
屋敷山古墳 |
「屋敷山」の名は、中世〜近世初めにこの地を支配した布施氏が居館として利用し、さらに江戸時代の初めに桑山氏が陣屋を築き、周辺に屋敷を構えたことに由来している。古墳は長持型石棺を安置した竪穴式石室であったようである。築造の時期は5世紀中頃と推定され、その被葬者は、古代大和の豪族であった葛城氏に関係する人と考えられる。
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屋敷山公園に置かれた石室の天井石 | 公園の中にある屋敷山古墳は、全長135mの前方後円墳 |
ホテルサンルート堺へ向かう高速道路から、二上山のシルエットが美しかった |
2日目 (4月28日) |
古市古墳群(長持山古墳出土の石棺、允恭天皇陵、鍋塚古墳、仲津姫皇后陵、古室山古墳、赤面山古墳、 大鳥塚古墳、応神天皇陵、誉田丸山古墳、誉田八幡宮)→藤井寺市生涯学習センター →アイセルシュラホール→松岳山古墳→柏原市歴史資料館→高井田横穴公園→ホテル サンルート堺(泊) |
古市古墳群 |
日本有数の大型古墳が密集する古市古墳群(ふるいちこふんぐん)は、大阪府の東南部に位置する羽曳野市・藤井寺市を中心に広がる古墳群で、4世紀末から6世紀前半頃までのおよそ150年の間に築造された。東西約2.5km、南北4kmの範囲内に、応神天皇陵など墳丘長200m以上の大型前方後円墳7基を含む、127基(現存44基)の古墳で構成されている。 2008年9月26日、仁徳天皇陵を含む百舌鳥古墳群(もずこふんぐん)とともに世界遺産の国内暫定リストに追加された。 |
古市古墳群分布図 |
古市古墳群の古墳一覧表 |
古市古墳群世界文化遺産登録推進連絡会議資料による |
長持山古墳出土の石棺 |
道明寺小学校内に展示されている2基の石棺は、長持山古墳に収められていたものである。長持山古墳はここから北東50mの所にあった直径40mの円墳であった。明治の初め頃、長持山古墳を訪れた英国人のウィリアム・ガウランド*が、今2号墳と呼ばれる石棺の写真撮り、学界に報告した。 |
*ウィリアム・ガウランド(1842年 - 1922年)は、明治政府が英国より大阪造幣寮(現造幣局)にお雇い外国人技師として招聘した化学兼冶金技師。日本の古墳研究の先駆者としても名高く、「日本考古学の父」と呼ばれている。さらに、山岳関係者には「日本アルプス」の命名者としても知られている。彼は明治10年(1877年)に槍ヶ岳に登頂した。これは有名なウォルター・ウェストンよりも15年早い。 |
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長持山古墳の石棺について説明して下さる天野末喜先生 |
左:1号石棺(5世紀後半、九州型)、 右:2号石棺(6世紀初め、近畿型) |
歴代天皇および陵墓一覧表 (神武天皇〜推古天皇) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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上記は、多くの文献やウエブサイトを参考にまとめましたが、誤りの虞がありますので、利用に当たっては宮内庁資料などでご確認下さい |
允恭天皇陵(市野山古墳) |
允恭天皇陵(市野山古墳)は全長228mの前方後円墳。允恭天皇(第19代、在位:412年 - 453年)。父は仁徳天皇、母は磐之媛命。 |
後円部から撮影 周濠には水はなかった |
再発掘中の古墳 |
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土師氏*に因む土師ノ里駅(近鉄南大阪線) | 土師ノ里駅近くで再調査中の古墳を見学した |
*土師氏は渡来系の古代豪族。技術に長じ、古墳時代の中期を代表する古墳造営や葬送儀礼に関った氏族である。天穂日命の末裔と伝わる野見宿禰が殉死者の代用品である埴輪を発明し、第11代天皇である垂仁天皇から「土師職(はじつかさ)」を、曾孫の身臣は仁徳天皇より改めて土師連姓を与えられたと言われている。埴輪製作から葬送儀礼まで「古墳の設計施工」を請け負う、いわばゼネコンであった。土師氏は秦氏の一族であると言われている。 やがて古墳時代(ゼネコン全盛期)を過ぎると、何時までも土師氏でもないということで、桓武天皇から姓を与えられ、大江氏・菅原氏・秋篠氏に分かれていったという。 |
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家形石棺 | 円筒埴輪の破片 |
鍋塚古墳 |
鍋塚古墳は全長50mの方墳。仲姫命陵の後円部に近接して築造され、仲姫命陵との関係がうかがえるという。濠があった可能性がある。 |
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ここから見ると円墳のように見えるが、墳頂に登ってみると四隅が認められ、方墳であることが分る |
仲姫皇后陵(仲津山古墳) |
仲津山古墳は、全長290mの前方後円墳。応神天皇の皇后だった仲姫命(なかつひめのみこと)を埋葬した御陵とされる。この古墳の規模は、古市古墳群の中で応神天皇陵(誉田山古墳)に次いで大きく、全国でも9番目にランクされる。 |
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後円部 | 前方部左隅 |
前方部の正面にある拝所 |
古室山古墳 |
古室山古墳は全長150mの前方後円墳。出土した円筒埴輪の特徴から仲姫命陵(仲津山古墳)や応神天皇陵(誉田御廟山古墳)よりも古く、古市古墳群の中では初期に築造された前方後円墳の1つと考えられている。 |
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墳頂に登ると、東方の展望が開け、遠くに二上山が望まれる。 左手前の丘陵地辺りが、土師窯跡かなと想像が膨らむ。 |
赤面山古墳 |
西名阪自動車道の高架下に小さな土の高まりがある。案内してもらわないと見過ごして しまいそうである。これが赤面山古墳。5世紀前葉に造られた全長約15mの方墳。 |
大鳥塚古墳 |
大鳥塚古墳は、全長110mの前方後円墳。上述の赤面山古墳はこの大鳥塚古墳の 後円部に接する位置にあり、2つの古墳の被葬者には、主従関係が想像される。 |
応神天皇陵(誉田御廟山古墳) |
応神天皇陵は全長425mの前方後円墳で、古市古墳群では最大、日本全体では百舌鳥古墳群の仁徳天皇陵に次ぐ大きさである。5世紀中頃の築造。立地条件は、必ずしもよいとは云えない。それは、土質の安定した段丘と不安定な氾濫源という異質の土地にまたがって墳丘を造営しているためという。
また、造営前から二ツ塚古墳が存在しており、それを避けるように造ったため、周濠と内堤が歪んでいる。前方部の崩落部分のほぼ真下を活断層が走っているという。 初代の神武天皇から第14代仲哀天皇まで実在性が乏しいといわれる中で、15代の応神天皇*は実在性が濃厚な最古の天皇とされている。 |
*応神天皇は在位270年 - 310年、父は先帝仲哀天皇(日本武尊の子)で、母は神功皇后。神功皇后は三韓征伐のときは懐妊していたが出産を遅らせ帰路に九州宇美で応神天皇を生んだという。応神天皇の皇后は仲姫命、妃は10人、子は27人。? 日本書紀によると111歳、古事記によると130歳で没したという。後世、神功皇后と共に皇祖神や武神として各地の八幡宮に祭られる。 |
応神天皇陵の前方部正面の拝所 |
誉田丸山古墳 |
誉田丸山古墳.(古市丸山古墳)は、応神天皇陵の陪塚の1つ。直径50mの円墳。ここからは、金銅製の鞍金具などの馬具(国宝)が出土し、誉田八幡宮に所蔵されている。 |
応神天皇陵の拝所の直ぐ近くから撮影 |
誉田八幡宮 |
誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)の主祭神は応神天皇で、応神天皇陵のすぐ南に鎮座する。2つの国宝「塵地螺鈿金銅装神輿(ちりじらでんこんどうそうみこし)」(鎌倉時代)と「金銅透彫鞍金具(こんどうすかしぼりくらかなぐ)」(古墳時代)は見逃せない。 |
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誉田八幡宮の鳥居から本殿を望む | 誉田八幡宮の歴史と宝物について説明を受ける |
誉田八幡宮では、毎年9月の大祭には神輿が境内にある太鼓橋を渡って 御陵の後円部頂上にある御堂までお渡りするという祭礼が続けられてきた。 宮内庁所管の陵墓内に一般人が入れる異例な行事であるという。 |
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宝物殿 |
国宝 金銅透彫鞍金具*(古墳時代) *いずれも撮影禁止のため誉田八幡宮のHPから |
国宝 塵地螺鈿金銅装神輿* (鎌倉時代) |
藤井寺市生涯学習センター アイセルシュラホール |
アイセルとは、Activity(活動)、Information(情報)Consultation(相談)、Exchange(交流)、Learning(学習)の頭文字。シュラは、藤井寺市から出土した古墳時代に巨石を運搬したと思われる修羅のこと。建物の外観デザインは、船形埴輪と修羅をモチーフに、歴史を継承し未来へと出帆する船をイメージしているという。 |
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船形埴輪と修羅をモチーフにした外観 |
1978年に三ツ塚から2つの修羅が出土した。大きい方はアカガシ類の木で全長 8.8m、幅1.9m、重さ3.2トン。修羅は重い石材などを運搬するための木製の橇。 |
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井真成墓誌の蓋 | 墓誌の銘文(拓本)と現代語訳 |
墓誌の銘文の現代語訳 銘文中に「国号日本」の表記がある。日本という国号は、大宝律令(701年)で定められたが、 この墓誌は、734年時点でこの国号が国際間の呼称として使用されていたことが分る貴重な資料となった。 |
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現代の庶民の墓地の向うに見える仲哀天皇陵 | 日本武尊白鳥陵*(左)と清寧天皇陵(右) |
*日本武尊(ヤマトタケル、72年頃?113年頃)は、記紀に登場する皇子である。ヤマトタケルノミコトとも呼ばれ、第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父とされる。日本武尊の物語は古事記と日本書紀でかなり異なるが、ここでは古事記に準拠してあらましを紹介する。日本書紀が天皇の立場を擁護する内容であるのに対して、古事記の方が悲劇のヒーローの物語として興味深いからである。なお、日本書紀では日本武尊、古事記では倭建命と書かれているが、人名だけはかつて小学教科書で馴染みの日本武尊と記すことにする。 西征物語 日本武尊は兄を殺したことで父に恐れられ、疎まれて、九州の熊襲建兄弟の討伐を命じられる。わずかな従者しか与えられなかった日本武尊は、まず叔母の倭姫命が斎王を勤めていた伊勢へ赴き女性の衣装を授けられる。このとき彼は、いまだ少年の髪形を結う年頃であった。九州に入った日本武尊は、熊襲建の宴に美少女に変装して忍び込み、宴たけなわの頃を狙ってまず兄建を斬り、続いて弟建に刃を突き立てた。誅伐された弟建は死に臨み、日本武尊の武勇を嘆賞し、ヤマトタケルの号を献じた。 東征物語 西方の蛮族の討伐から帰るとすぐに、景行天皇は重ねて東方の蛮族の討伐を命じる。日本武尊は再び倭姫命を訪ね、父天皇は自分に死ねと思っておられるのか、と嘆く。倭姫命は日本武尊に伊勢神宮にあった神剣天叢雲剣(スサノオノミコトがヤマタノオロチの尾から取りだした太刀)と袋とを与え、「危急の時にはこれを開けなさい」と言う。相模の国で、日本武尊は、野中で火攻めに遭ってしまう。そこで叔母から貰った袋を開けたところ、火打石が入っていたので、天叢雲剣(草薙剣)で草を掃い、迎え火を点けて逆に敵を焼き尽くしてしまう。それで、そこを焼遣(やきづ=焼津)という。 相模から上総に渡る際、走水の海(横須賀市)の神が波を起こしたので日本武尊の船は進退窮まった。そこで、妃の弟橘媛が自ら尊に替わって入水すると、波は自ずから凪いだ。入水に当たって媛は火攻めに遭った時の夫日本武尊の優しさを回想する歌を詠んだ。 さねさし相模の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて問ひし君はも 訳:相模野の燃える火の中で、私を気遣って声をかけて下さったあなたよ…… 弟橘姫は、日本武尊の思い出を胸に、幾重もの畳を波の上に引いて海に入る。7日後、姫の櫛が対岸に流れ着いたので、御陵を造って、櫛を収めた。 その後日本武尊は、足柄坂の神を打ち殺し、東国を平定して、四阿嶺に立ち、そこから東国を望んで弟橘姫を思い出し、「吾妻はや」(わが妻よ……)と三度嘆いた。そこから東国をアヅマ(東・吾妻)と呼ぶようになったという。 尾張に入った日本武尊は、かねてより結婚の約束をしていた美夜受媛と歌を交わし、結婚した。そして、伊勢の神剣草薙剣(天叢雲剣)を美夜受媛に預けたまま、伊吹山へその神を素手で討ち取ろうと、出立する。日本武尊の前に、白い大猪が現れる。日本武尊はこれを神の使いだと無視をするが、実際は神自身の化身で、大氷雨を降らされ、尊は失神してしまう。山を降りた日本武尊は、弱った体で大和を目指して、能煩野(三重県亀山市〉に到った。 やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる やまとし うるわし 訳:大和は母なる国、私の故郷。幾重にも重なって青々とした垣をなす山々、 その山々に抱かれている大和は、何と美しい国だろう など4首の国偲び歌を詠って亡くなるのである。 日本武尊の死の知らせを聞いて、大和から訪れた后や御子たちは陵墓を築いて歌を詠った。すると日本武尊は白鳥となって飛んで行った。 日本武尊の墓とされる古墳(白鳥陵)がいくつかあるが、能褒野王塚古墳(三重県亀山市)と軽里大塚古墳(大阪府羽曳野市)などが比定されている。 |
松岳山古墳 |
松岳山古墳は、全長130mの前方後円墳、4世紀の前半の築造である。この頃にはまだ、古市古墳群や百舌鳥古墳群の姿はなかった。松岳山古墳の被葬者については、河内の最有力な首長とする説と大和勢力の有力な一員とする見解に分かれている。ただ、両方の見解とも松岳山古墳を造った勢力が古市古墳群の造営主体と深くかかわったとする点は一致している。つまり、松岳山古墳をどのように理解するかが古市古墳群の成立とその後の展開を解き明かす重要なキーだといわれている。 |
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松岳山古墳は、国分神社の奥にある。 |
後円部の墳頂に古い形の長持形石棺があり、蓋が露出 している。石棺は内側の長さ2.5m、北端幅1.09m、 南端幅0.87m、高さ0.7〜0.75mという。 |
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石棺の南北の両端近くに、高さ1.8〜2.3m、幅1.4mの立石が置かれているが、その 用途は分らない。立石には、小さな穴が開けられているが、その目的も分らない。 |
石棺の蓋の石材は 花崗岩のようだ |
柏原市歴史資料館 |
柏原市は、大阪府と奈良県の境を流れ大阪湾に注ぎ込む大和川沿いの河内平野の東南部に位置し、古くから歴史の舞台になってきた。歴史資料館は古墳時代から近世までの資料が展示され、隣接する高井田横穴公園と共に歴史体験の場となっている。 |
歴史資料館の外観 |
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松岳山古墳の鰭付楕円形埴輪 |
上:渡来人の土器 下:鉄器を作る(左からフイゴの羽口、鉄滓、砥石) |
高井田横穴公園 |
柏原市歴史資料館に隣接してある史跡高井田横穴は、総数200基以上の大規模な横穴群である。横穴は6世紀から7世紀前半にかけて造られた墳墓で、凝灰岩の岩盤に横穴を掘ったもの。 |
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歴史資料館から高井田横穴公園に向かう | 北野重さんに高井田山古墳を案内して頂く |
古墳は、薄い板石を積み上げて造られた横穴式石室を持ち、5世紀末の築造と考えられる。 石室内から、日本で2例目の発見となった火熨斗(ひのし、古代のアイロン、右奥に見える) や多くの武具が出土したという。 |
第3支群5号墳には線刻壁画がある。 線刻壁画に登場する画材は、日本の表玄関としての大和川と深く関係する遺品や遺跡、 渡来人がもたらした古代日本の発展の先駆的な役割を示唆している。 |
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線刻壁画のレプリカ | ||||
第3支群5号墳の説明板 | 「史跡高井田横穴公園 開園10周年記念企画展」 から |
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第3支群6号墳の入口 |
第3支群6号墳の羨道 内部は結構広い |
3日目 (4月29日) |
堺市中心地散策→堺市役所屋上から展望→百舌鳥古墳群(仁徳天皇陵とその周辺、 御廟山古墳とその周辺、履中天皇陵とその周辺)→大阪府立 近つ飛鳥博物館→ 推古天皇陵→聖徳太子御廟→新大阪駅 |
堺市中心地 朝の散策 |
出発までの小1時間、ホテルの近くの堺市名所を散策をした。 |
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2泊したホテル・サンルート堺 | 千利休屋敷跡 |
堺の豪商の長男として生まれた与四郎は天正15年(1587年)北野大茶会を司り、天下一の茶人といわれたが、 天正19年(1591年)に秀吉の怒りをかい切腹させられた。この屋敷跡には利休が茶湯に常用した椿井がある。 |
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与謝野晶子生家の跡 | 「海こひし・・・」の歌碑 |
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開口(あくち)神社 住吉大社の奥の院といわれている. | 菅原神社 |
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薬祖神社 菅原神社に合祀され、摂社として祀られている | 天満宮 |
堺市役所屋上から展望 |
堺市役所最上階21階展望ロビーは、堺のまちなみが360度の大パノラマとして眺望できる回廊式ロビー。世界三大墳墓の一つともいわれる仁徳天皇陵古墳をはじめ多くの古墳を眺めることができる。 |
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21階へエレベーターで | 真東に二上山、手前の丘陵に光るのはブドウ栽培のビニールハウス |
東北東に反正天皇陵 遠方のツインタワーはベルマージュ堺(タワーマンション) |
南東南に仁徳天皇陵、右遠方に履中天皇陵 |
仁徳天皇陵の航空写真(市役所屋上から見るのと違って陵の様子がよく分る) 文化庁資料より |
世界三大墳墓の大きさの比較 |
堺市ホームページより |
百舌鳥古墳群 |
日本の国家形成期、日本各地に現れた有力な支配者層は大きな墓を造った。特に3世紀から7世紀のこうした墓は「古墳」と呼ばれた。かつて全国には20万基もの古墳が造られた。前方後円墳、円墳、方墳など、古墳の形や大きさは、被葬者の社会的地位などを表していると考えられる。これらの古墳の頂点にあるのが世界最大級の墳墓である仁徳天皇陵(大仙古墳)である。 堺市百舌鳥周辺の段丘上の4km四方の範囲に100基を越す古墳が造られたとみられ、百舌鳥古墳群を形成している。都市化の進展でその多くが失われたが、4世紀後半から5世紀後半に造られた43基の古墳が残っている。現在、古市古墳群と合わせて、百舌鳥・古市古墳群として世界文化遺産への登録を目指す運動が進められている。 |
百舌鳥古墳群分布図 |
百舌鳥古墳群の古墳一覧表 |
堺市 世界文化遺産推進室資料による |
仁徳天皇陵(大仙古墳)とその周辺 |
仁徳天皇陵(大仙古墳)は世界最大の前方後円墳である。それをこの目で確かめることが今回の旅の目的の1つであった。 仁徳天皇陵の立地条件を、このホームページの冒頭の古墳時代の大阪平野の地図で見て頂きたい。 瀬戸内海から大阪湾に入ってきた外国の船が、海岸の高台に夕陽を浴びて黄金色に輝く(無数の円筒埴輪はそのためにあるのだろう)巨大な前方後円墳を見て驚くであろうことは、想像に難くない。 |
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周濠の隅からの距離を示す案内板(一周 2,850mということ) 実際に歩いてみてその巨大さが分った。 |
仁徳天皇陵陪塚の1つ |
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銅亀山古墳 方墳 全長26m | 竜佐山古墳 前方後円墳 全長67m |
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孫太夫山古墳 前方後円墳 全長56m |
外周道路のすぐ内側の周濠は 三重目の濠 |
正面の拝所に行く途中の周濠は二重目の濠 |
仁徳天皇陵(大仙古墳)は全長486m、世界最大の前方後円墳。 三重の濠が巡っており、拝所と前方部の間にある周濠が最内部の一重目の濠 周りには陪塚とされる古墳が10基以上ある。5世紀中頃の築造。 |
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JR百舌鳥駅 | 収塚古墳 前方後円墳 全長65m | 長塚古墳 前方後円墳 全長100m |
御廟山古墳とその周辺 |
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御廟山古墳は、全長200mの前方後円墳、造営は5世紀中頃 百舌鳥古墳群では、仁徳天皇陵、履中天皇陵、ニサンザイ古墳に次ぐ大きさ |
善右ヱ門山古墳は、全長30mの方墳 イタスケ古墳の陪塚 |
イタスケ古墳は、全長146mの前方後円墳、造営は5世紀中頃。 昭和30年頃には破壊の危機にさらされたが、市民による保存運動により破壊から守られた。 |
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開発業者*がイタスケ古墳に付けた橋。開発中止でタヌキも安心。 | イタスケ古墳のサギ |
*開発業者は、工事の際に土砂を取る重機を入れるため周濠に橋を架け、樹木を伐採した。橋は現在でも古墳側から伸びる半分が残されている。1999年に野生のタヌキのつがいが古墳に移り住み、2004年11月に新聞やニュースで報道された時は11頭の家族となっていた。 狸は本来は夜行性なのだが、晴れた日の昼間などに壊れた橋の上で陽に当たる姿が見られる。 |
履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)とその周辺 |
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大仙公園は 今日のシティマラソンのゴールになっている |
グワショウ坊古墳は直径58mの円墳 |
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旗塚古墳は全長56mの前方後円墳 | 七観音古墳は直径25mの円墳 |
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七観山古墳*(復元) | 七観山古墳の墳頂から履中天皇陵を眺める |
*七観山古墳は直径56mの円墳で、履中天皇陵の後円部周濠の北側に位置し、同古墳の陪塚とされる七観音古墳のすぐ北西に所在していた。葺石と埴輪があり、墳頂部には鰭付円筒埴輪と方形埴輪列が巡っていたようである。1952年(昭和27年)には土取り工事によって消滅することになり、それに先だって緊急の発掘調査が行なわれた。鉄製甲冑、鉄刀、鉄剣、などの大量の武器、武具が出土している。馬具の鐙(あぶみ)は日本国内で出土している中でもっとも古いものとされている。
この古墳の性格としては、大量の副葬品の埋納にもかかわらず、遺体が埋葬されなかった可能性があり、陪塚と考えられる古墳のあり方を示す貴重な一例となっている。なお、七観山古墳の跡地は現在、大仙公園の敷地にとり込まれ、消滅した古墳と同規模の築山が造られている。 |
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履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳) 全長360mの前方後円墳、我国では3番目の大きさ、5世紀前半の築造 |
履中天皇陵拝所 |
バスの車窓から眺めるブドウ畑 大阪府は全国第7位のブドウ生産地。生産性と品質を高めるため最近ではハウス栽培が 多いが、ブドウ畑は風物の1つであった。フランス人なら残念に思うかもしれない。 |
大阪府立 近つ飛鳥博物館 |
「近つ飛鳥」という地名は、「古事記」に記載がある。履中天皇の同母弟(後の反正天皇)が、難波から大和の石上神宮に参向する途中で2泊し、その地を名付けるに、近い方を「近つ飛鳥」、遠い方を「遠つ飛鳥」と名付けたというもの。「近つ飛鳥」は今の大阪府羽曳野市飛鳥を中心とした地域をさし、「遠つ飛鳥」は奈良県高市郡明日香村飛鳥を中心とした地域をさす。 |
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近つ飛鳥博物館は大阪府河南町の近つ飛鳥風土記の丘にある。 建物の設計は建築家安藤忠雄氏。展示室を上空から見ると前方後円墳の形をしている。そびえる塔は「黄泉の塔」 航空写真は月刊指定管理者制度HPより |
吹き抜けの大展示室 |
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仁徳天皇陵の模型(直径10m、150分の1) | 甲冑出土状態の再現 |
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各種の石棺 | 水鳥形埴輪(レプリカ) |
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円筒埴輪(中央は鰭付(ひれつき)円筒埴輪) | 埴輪に囲まれた展示室 |
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埴輪を造る土師氏の工房の模型 |
国指定重要文化財の「小修羅」(レプリカ) 古墳時代の重量物運搬用木製ソリ |
推古天皇陵(山田高塚古墳) |
推古天皇陵は全長61mの方墳。『古事記』には、「遺令によって女帝の亡骸は息子竹田皇子が眠る墓に合葬された、その所在は奈良県橿原市五条野の植山古墳とされている。後年、大阪府南河内郡太子町山田にある河内国磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)に改葬された」とある。 |
推古天皇(554年 - 628年)は、第33代天皇(在位:593年 - 628年)36年間。『古事記』はこの天皇までを記している。 用明天皇が崩御した後、穴穂部皇子を推す物部守屋と崇峻天皇を支持する蘇我馬子が戦い、蘇我氏の勝利に終わった。そこで皇太后(額田部皇女)が詔を下して泊瀬部皇子(崇峻天皇)に即位を命じたという。しかし、5年後には崇峻天皇が馬子の指図によって暗殺されてしまった。そこで先々代の皇后であった額田部皇女が、馬子に請われて、推古天皇として即位した。時に彼女は39歳で、史上初の女帝となった。 翌年、推古天皇は甥の厩戸皇子(聖徳太子(574年 - 622年))を皇太子として摂政をさせた。公正な女帝の治世のもと、聖徳太子はその才能を十分に発揮し、冠位十二階・十七条憲法を次々に制定して、法令・組織の整備を進めた。607年小野妹子を隋に派遣した。中国皇帝から政権の正統性を付与してもらう目的で、過去にもたびたび使節が派遣されていたが、初めて日本の独立を強調する目的で使節が派遣された。翌年からは入隋の使節に学問生・学問僧を同行させた。女帝は太子や馬子と共に仏法興隆にも努め、斑鳩に法隆寺を建立させたりした。 |
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推古天皇磯長山田陵の石碑 | 拝所のある正面から見た推古天皇陵 |
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正面から右側奥に入ってみると3段築造のように見える。2つの石室があるという。 |
聖徳太子廟(叡福寺北古墳) |
大阪府南河内郡太子町の叡福寺が聖徳太子磯長廟として祀り、聖徳太子らの墓所とされる叡福寺北古墳は、宮内庁により天皇家の陵墓(磯長陵)に指定されている。 |
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叡福寺の多宝塔・金堂・聖霊殿など、聖徳太子廟はこの右手にある。 | 聖徳太子廟の拝所 |
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墳丘の周囲は、「結界石」と呼ばれる石の列によって 二重に囲まれている。 |
聖徳太子廟は直径54mの円墳で、築造時期は 7世紀前半から中頃。寺伝によれば、聖徳太子と 妃の膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)、 太子の生母穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女 の3人を、この廟に合葬したという。 |
聖徳太子廟を最後に、2泊3日の葛城と河内の古墳群を巡る見学会は終了した。今回は、2012年現在ユネスコの世界遺産暫定一覧表に記載されている「百舌鳥・古市古墳群」をはじめ、多くの古墳を訪ね、日本の古代史とりわけ古墳時代の魅力に浸ることができた。 最後に、ご案内とご指導を下さった関西学院大学文学部非常勤講師で藤井寺市教育委員会文化財保護課学芸員の天野末喜先生、並びに本見学会を企画・実施して下さった「トンボの眼」佐々木章氏に心からお礼申し上げます。 |
今回の見学会を主催した「トンボの眼」のホームページをご覧になる方は |
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